孫の面倒を見るのはなかなかしんどい。しんどいが見放すわけにはいかない。子どもには何の罪もない。
これまでの微々たる蓄えは減る一方だ。そのスピードたるや半端ない。だから、少しでもスピードを鈍らせようと働き口を探しているが、来年古希を迎える身に働き口をあてがおうという人なんてありゃしない。
町を歩けば、どこもかしこも高齢者ばかりだ。どこへ行っても爺さん婆さんにぶち当たる。まさに人生百年の時代が到来したことを実感する。
そんな中で、生活費は孫に吸い取られる。それを補うだけの小遣いを稼ごうにも働き口がない。とくれば、高齢者は一体この先どうやって生きていけばいいんだろう。
百年も生きるなんて、夢のまた夢冗談じゃねえ。生きるにはそれだけ生活費がかかるんだぜ。それが払えないならとっとと死ね役立たず、と言っているようなもんじゃないか。
百年人生というのは、百歳まで生きようと思えば生きられる時代になったということだ。ただし、そうしたけりゃ金を貢げってこと だな。金のないやつは邪魔だからとっとと死ね、と。どうかお国のために死んでくれ、と。
【きょうの一枚】アルストロメリア・プルケラ。
近所、というほど近くもないが、家からカブを走らせて数分のところに、一日三組しか泊まれないヴィラがある。そこの駐車場脇にこの花が群生していた。ここは無人販売所からミニトマトを買った帰りに通る道の曲がり端。
ずいぶんエキゾチックな花だな、何という花だろうと気になった。そうして、カブを停めて「花しらべ」に当たった。
「花しらべ」で検索したら「アルストロメリア・プルケラ」と出た。舌を噛みそうな名だ。南米に自生するという。
ヴィラの女将さんの好みなんだろうか。私はどうも好きになれそうにない。しとしとぴっちゃんの時期の花とくれば、私にはやっぱり紫陽花がしっくり来る。
【書】「定見」ていけん(No.1,086)
「一定の見解。定まった意見。」(『旺文社漢字典』第2版)
「定」は、宀(家)と、音を表す正(せい。「てい」は変化した音。とどまる意→停)とで、家にとどまる意、ひいて「さだめる」意を表す。
「見」は、人にひらいている目を付けて、ものを「みる」、ものが「みえる」意を表す。ひいて、人に「まみえる」意。転じて、現象・状態などが「あらわれる」意に用いる。
【ディジタル画】『三四郎』 84(No.526)
与次郎に勧められて出席した会で、三四郎は広田先生と見知り合いの庄司という博士からガリレオの名を聞く。いわく、「ガリレオが寺院の釣り洋燈の一振動の時間が、振動の大小に拘はらず同じである事に気が付いたり」云々。
ガリレオといえば、その名を知らない人がいないくらい有名だが、その肖像画をこれまで一度も描いたことがない。それで今回描いてみた。
今回もすべてConcepts「水彩絵具H2」で描いている。そろそろ間取りに取り掛かりたいが、ごちゃごちゃと所用があってなかなか時間が取れない。
【タイムラプス】6月8日(水)8:05〜10:03の伊豆長岡の空。29秒。
【新型コロナ】6/8(水)10:00現在(Yahoo!より)
新規感染者数→17,039(前週同曜日比 −4,978)
重症者数→76(前日比 +1)
累計死亡者数→30,802(前日比 +26)