いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

ままごとの餌食とならんパンジー植う(あ)

 辰野和男『文章のみがき方』(岩波新書)読了。

 最後の「文章修業のために」の章で、著者は幸田文の心得を引き出す。

 「ひっきょう、父(幸田露伴)の教えたものは技ではなくて、これ渾身ということであった」

 幸田文は、何事にも渾身の力をこめて取り組め、との父の教えを受け継いで文章修業に励んだ。同じことは、絵についても言えよう。要するに、文章でも絵でも、何をやるにしても「これ渾身」の気持ちを大事にせよということだ。幸田文は父からその心得を叩き込まれた。

 上手くなろうという気持ちを持つこと自体は悪いことではないが、だからといって、力量以上に上手く見せようと思ってはいけない。上手く見せようと思った時点で邪心が生まれる。下手は下手な作品しか作れない。上手は上手な作品しか作れない。下手なのに上手く見せようとか、上手いのにわざと下手くそに仕上げるとかしたら、心がこもった作品にはならない。時として幼い子の絵に心揺さぶられたりするのは、絵の上手い下手ではなく、見る人に描いた人の感性が伝わるからでしょう。その感性に共鳴した時、そこに感動が生まれる。

 となれば、文章の修業でも絵の修業でも、上達のコツは、感性を磨くに尽きると言えようか。でも、それって、どうやって磨けばいいんだろう。

 

【今日の一枚】パンジーの苗を植える。

f:id:jijiro:20210118071751j:image

 職場からいただいたパンジーの苗を植えた。もらってきたはいいが、どこに植えようか思案していた。結局、100円ショップで買ってきた花壇フェンスのへりに植えることにした。ポットから出して植えるには時期が遅いかもしれないが、ダメもとでやってみました。あまり日が当たらないところだけど、うまく咲いてくれるかなあ。

 

【書】「亜聖」あせい(No.571)

f:id:jijiro:20210118071714j:image

 「聖人に次ぐりっぱな人。孔子に対して孟子(もうし)、または顔淵(がんえん)をいう。(『旺文社漢字典』第2版)

 「亜(亞)」は、中国古代の、王や貴族を埋葬した地下の墓室の平面形。正方形の墓室の四隅をくりとってある形である。四隅をくりとるのは、そこに悪霊がひそむ恐れがあるからであろう。死者を埋葬する葬礼など、霊に対する儀式をとり行う執行者を亜といった。→白川静『常用字解』

 「聖」は、もとの字は〓1に作り、耳と口と〓2(てい)とを組み合わせた形。〓2はつま先で立つ人を横から見た形。口は神への祈りの文である祝詞(のりと)を入れる器の形。〓2の上に大きな耳の形をかいて、聞くという耳の働きを強調した形である。古代の人は耳には、かすかな音で示される神の声を聞く働きがあると考えたのである。祝詞を唱え、つま先立って神に祈り、神の声、神の啓示(お告げ)を聞くことができる人を聖といい、聖職者の意味となる。→同

〓1↓

f:id:jijiro:20210118071640j:image

〓2↓

f:id:jijiro:20210118071650j:image

 

【タイムラプス】1月17日(日)6:05〜8:52の伊豆長岡の空。20秒。

https://www.facebook.com/1298610339/posts/10225203830825032/?d=n

 

【新型コロナ】1/17(日)10:00現在(Yahoo!より)

現在感染者数→72,289(前日比+2,065)

新規感染者数→7,012(前日比 −122)

死亡者数→4,475(前日比+56)