いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

四月尽玩具昔の草の中(あ)

昨日(4/28)遅く、中学校の連絡網で、市内小中学校の休校期間が5/31(日)まで延長することになったと知った。同日、市教育委員会から連絡があったという。新型コロナウイルス感染拡大が未だ収束を見ない状況ではやむを得ない決断か。

学校は、4月初めの始業式で新クラスと担任が発表され、翌日に入学式が行われただけで、以降ずっと休みが続いていた。これで学校はとうとう二ヶ月も授業をしない(できない)ことが決まった。

ここへきて学校の9月始業案が広がりを見せている。広がりの発端は高校生の切実な声だとか。高校生も、このコロナ禍をやり過ごすのに必死なんだ。

今日の朝日新聞「天声人語」(ディジタル版)でも、夏目漱石『三四郎』の出だしのシーンを引用し、「明治期の大学は西洋にならい、9月が学年の始まりだった」と、学業の9月始業案を話題に挙げている。

いいかもしれない。こんなコロナに苦しんでいるときに不謹慎な、というなかれ。外圧から国の羅針が変わることは、これまでの歴史が示していることでもある。すでに二ヶ月も学校の機能が停止したままでもあることだし、再開の見通しも立たない今だからこそ、大英断を下す絶好の天の配剤と思うがどうか。

 

【今日の一枚】昔使っていた孫のおもちゃ。

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昨日に引き続き裏庭の草むしりをしていたら、孫が昔使っていたおもちゃのダンプカーが現れた。

あれから7年。孫娘はまだ小学校にも上がっていなかった。孫も大きくなり、今では見向きもされないおもちゃのダンプカーだが、下屋のカラーボックスに置かれたままだったのを孫娘が見つけた。カラーボックスの棚には「サンマを焼くやつ」もあった。「サンマを焼くやつ」とは七輪のことだが、孫娘の思い出の中の七輪は、今でも「サンマを焼くやつ」なのである。

七輪の出番は、伊豆では一度しかない。そのときは七輪に炭を熾(おこ)して、小津安二郎監督の遺作「秋刀魚の味」よろしく、庭でサンマを焼いて孫に食わせたものだ。そのことを孫娘は覚えていたのである。

その頃、前の道を転がしてどんぐり拾いをしたおもちゃのダンプカーは、今日はむしった草を運ぶ道具になっていた。ダンプカーの赤い荷台の底は朽ちて穴が空いていた。

 

【タイムラプス】撮り忘れた。

午前3時に2階の布団から抜け出し、1階和室のパソコンに向かってブログの下書きをする。日中はお兄ちゃんにパソコンを占領されるので、私がパソコンを使えるのは、お兄ちゃんが朝食で起きてくるまでのこの時間帯しかない。

早起きの孫娘は、大抵私が下書きをしている途中で起きてくるが、庭に向いたカウンターでiPadをいじっているので支障ない。

いや、今日は支障があった。私がセットしたタイムラプスの撮影が、撮影されていなかったのである。

私は普段、午前5時半頃に2階デッキにiPhoneをセットしてタイムラプス撮影に入るのだが、今日は、まだ寝ているとばかり思っていた孫娘が実はすでに起きていて、寝たふりをして私がiPhoneをセットするのを待ち、私が階下に降りて行ったすぐ後にデッキに出て、タイムラプス撮影を中止させた模様。しばらくして起きてきた孫娘が私にそう白状した。いつも早起きの孫娘が、今日は遅いなと思っていたら、そんなことをしてたんだ。

孫娘からすれば、ほんのちょっとしたいたずらに過ぎないのかもしれないが、私からすると、撮っていたとばかり思っていたタイムラプスがまるで撮れていなかったわけで、その落胆は小さくない。

が、考えてみればタイムラプスなんて撮れたところで大したものでもないし、所詮は自己満足に過ぎないのだから、そんなのに大の大人が目くじらを立てても仕方がない。損害は私個人の落胆だけで済んだのだから、私の腹に収めておけばいいだけのことだ。たぶん孫娘としても、いたずらをすることで私の反応を面白がりたかったという程度だったのだろう。子どもの考えるいたずらって大概そういうもんだ。で、期待に応えてちょっとだけ怒ったふりをしておいた。

てなわけで、夕方に改めて撮り直そうと思っていたら、すっかり撮り忘れていた。だから今日はタイムラプスは、なし。