いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

青空に花は大きく十二月(あ)

 午後5時から地元FM局から流れる3年生有志による校歌を聴いた。一応、番組を最初から最後まで録音してiPhoneに収めてあるが、56分と長いのでアップを見送った。

 一方、YouTubeでも同時配信するというので、録音を終えてからYouTubeで動画を見た。男子13名、女子10名がフェイスシールドをつけていたが、その分、歌声が幾分くぐもっているように聴こえた。本当は、フェイスシールドを外して思い切り歌いたかったろうに。

 3年有志歌声隊の両サイドに並んだのは市内のチアリーディングの面々。そのメンバーの中に、4年前に学童保育の手伝いをしていたときの子を見つけた。当時小学4年だった子も今は中学2年になり、チームのキャプテンを務めていると紹介されていた。

 あれから4年。大きくなったなあ。私がそこにいたら、私のことを思い出してくれただろうか。学童保育をしている男の人は私だけだったから、ああ、あの時の……と思い出してくれるかもしれないが、思い出してくれないかもしれない。でも、いいさ、思い出してくれなくたって。その子にとって所詮私はただの通りすがりの人に過ぎないのだし、私は、その子の成長を遠くから眩しく見つめるだけでいい。

 人生にはかけがえのない出会いというものがある。教師という仕事をしていると、かつての教え子から、私あのとき先生に教わった、と言われることがあるが、当人はその教え子を覚えていなかったりする。だけど、教え子からすると、あのときの先生はあのときのままらしい。

 私は、小学校から中学校を経て高校を卒業するまでいろんな先生方のお世話になった。しかし、その全ての先生を思い出せるわけではない。思い出すのは小学3年のときに体育館のプレハブ校舎で作文を書かされた新任の女先生、中学1年のときに階段の手すりを滑り降りた私にビンタを喰らわした校長先生、美術のテストで描いた絵の空模様が変だと減点した美術の先生、勉強と部活の両立に悩んだとき部活を辞めるなと言ってくれた進路の先生、高校3年の体育でソフトボールしかやらせてくれなかった体育の先生、だ。

 今こうして思い出せる先生は、皆個性豊かな先生たちばかりだ。翻って、さて私はどうだろう。教え子の思い出に残る一人になり得ているだろうか。

 

【今日の一枚】コダチダリア(木立ダリア)

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 一日1組限定の宿泊施設の駐車場脇に咲く。仕事の帰りにいつも通る道だが、咲いているのに初めて気づいた。土手の上の家が建っているところがいつも通る道路で、駐車場はそれより下にある。今日はわざわざ駐車場に回って、見上げるようなアングルで撮った。

 

【書】「考異」こうい(No.528)

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 「文字の異同を調べる。」(『旺文社漢字典』第2版)

 「考」の音符は丂(こう)。耂は老の上部の形と同じで、長髪の老人を横から見た形。これに音符の丂を加えた字が考である。亡父(なきちち)が考のもとの意味である。→白川静『常用字解』

 「異」は、鬼の形をしたものが、両手をあげておそろしい姿をしている形。田の部分は、畏の字の場合と同じく鬼の頭部。畏(おそれる)は鬼の形をしたものが杖を持って威霊を示している姿を横から見た形であり、異は正面から見た形である。→同

 

【タイムラプス】12月1日(火)5:39〜7:19の伊豆長岡の空。25秒。

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