いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

ふくよかに胸弾ませて寒雀(あ)

 毎日ブログを更新していると、更新した数だけ俳句も蓄積される。ブログの本数は昨日(11/12)現在で2821本だから、俳句も同じ数だけ作ったことになるが、それだけ作ったにもかかわらずちっとも上達しない。要するにセンスがないのだ。

 後から読み返してみて、自分でも、これじゃ言いたいことが伝わらないよなあと思う句がほとんどで、全く情けないったらありゃしない。

 毎回、歳時記をひもときながら、人口に膾炙された句に触れるたびに上手いなあと感心するが、いざ自分なりに五七五のリズムに刻んでみると、全く支離滅裂な、どこに感動があるのか判らないような句にしかならない。要するに、時間に追われて、この程度でよかろうと妥協するからいけないんだな。もう少し寝かせればいい按配に熟成するかもしれないのに、途中でやめてしまうから駄句を量産することになる。

 「三月の甘納豆のうふふふふ」。これは現代俳句の第一人者である坪内稔典の句。朝日新聞「折々のことば」(鷲田清一)で紹介され(2016/3/1)たのが目に留まり、いっぺんで好きになった。以来この句を目標に励んできたが、励めば励むほど隔たりを痛感し、打ちひしがれてきた。

 この句の解説で鷲田清一は、「俳句は日常の断片を事細かに説明するのではなく、刷毛で掃くようにさっと描く。そして、すっと一息でつぶやける(のが俳句)」と言う。それができたら苦労はない。言うは易く行うは難しで、これがなかなかできないんですよね。

 芭蕉翁は晩年に「軽み」を俳諧の理念とした巨匠だが、まさに坪内稔典の「三月の……」は軽みそのものだ。私もそのように、下手にことばをこねくり回さないで、それこそ、「刷毛で掃くようにさっと描」きたいと常々思うのだが、それがねえ、そう簡単にはいかないのよ。

 いつか自分の心にもストンと落ちるような句を作りたいと思っているが、その機会はもしかしたら死ぬまでやって来ないかもしれない。それでもいい。今は先達の軽みに一歩でも近づけるよう精進を重ねるしかない、と自分を叱咤している。

 

【今日の一枚】寒雀。

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 朝方、やたら賑やかに鳴く鳥がいて、なんという鳥だろうと鳴き声で検索したが判らなかった。頼みのアプリ「さえずりナビ」を立ち上げても、「サーバーダウン中」と表示されて先へ進めない。

 ならば羽の色で当たりをつけようと「夜鳥図鑑」のサイトへ飛んだが、これまたよく判らない。そうこうするうちに朝方の鳥がいなくなって、代わりにこいつが忙しく行ったり来たりするようになった。

 動きが速すぎてシャッターが切れない。ようやく隣家のフェンスに止まったところをすかさずパシャと撮ったら、何のことはない、昔から見慣れた雀であった。ボディが心なしか膨らんでいる。寒雀だ。よし、これで一句作れるとものしたのが今日のタイトル。なんだ、相変わらず駄句だな。

 

【書】「初吉」しょきつ(No.511)

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 「月の第一日。ついたち。朔日(さくじつ)。初一。」(『旺文社漢字典』第2版)

 「初」は、衣と刀を組み合わせた形。刀(はさみ)で布を裁(た)ち切って衣を作るの意味である。初めての衣を作ることで、赤ん坊の産衣(うぶぎ)として着せる着物を作ることをいう。→白川静『常用字解』

 「吉」は、士と口とを組み合わせた形。士は小さな鉞(まさかり)の頭部を刃を下に向けた形で、鉞は邪悪なものを追い払う力を持っていると考えられていた。口は、神への祈りの文である祝詞(のりと)を入れる器の形。祝詞には神への願いごとを実現させる働きがあると考えられていたので、口の上に神聖な鉞を置いて、祈りの効果を守ることを示しているのが吉である。→同

 

【タイムラプス】11月13日(金)5:24〜7:14の伊豆長岡の空。27秒。

https://twitter.com/aisakajiro/status/1327475036995796992?s=21