いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

長き夜の漱石全集手に重し(あ)

【今日の一枚】石油ファンヒーター。

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 6年前にヤフオクで落札した。落札価格がいくらだったかは覚えていない。新品だけど訳ありの傷物で、確か、4,000円はしなかっかと思う。

 今(10/16)、パソコンでブログの下書きを打っている。これまでの夏モードのままガラス戸を全開にしてパソコンの前に座るが、どうにも寒くて、昨年の灯油がまだタンクに残っているのをいいことに、石油ファンヒーターにスイッチを入れた。

 今朝は予報どおりぐんと冷え込んだ。薪ストーブが欲しいくらいであるが、今年の薪はまだ届いていない。連絡もない。注文は先月にしてあって、そのときの話だと、10月に入ったら届ける日を知らせるとのことだったが、その連絡が未だにない。そういえば、去年も直前まで連絡がなかった。が、ひとまず、一人暮らしの暖はこの石油ファンヒーターで十分なので、薪がまだ調達できないからといって特には困ることはない。

 それにしても10月も半ばで、そろそろ連絡をくれてもよさそうだ。土日しか家にいないから運ぶのは土日にしてくれと言ってあるので、今度の土日あたりに、「今日行きます」と突然の連絡があるかもしれない。

 話は変わって、夏目漱石。

 今日の中日新聞コラム「中日春秋」に、「胃を病んだ夏目漱石は療養先の静岡・修善寺で一時危篤に陥った。看病の人々らの献身や温かさに触れることになる。随筆『思ひ出す事など』に書いた」とあった。

 漱石が修善寺の菊屋旅館で大喀血した騒ぎは、文献に当たって知っている。が、そのときの周囲の人々の「献身や温かさに触れ」たことが『思ひ出す事など』の作品に載っていることは知らなかった。

 大体、私は読もうと思って買い揃えた「漱石全集」(岩波書店)をまだ完読していない。そのうちそのうちと思っているうちに、あっという間にこの歳になってしまった。

 老い先少なくなったら、新しい本を手にするのはやめて、マイペースでのんびりと古典に親しもうと思っていた。それで、漱石を古典扱いするのは少々乱暴だが、せっかく買い揃えた漱石全集が手元にあるのだからと、コラム「中日春秋」に触発されて、この夜長にもう一度読んでみることにした。

 なぜ古典を読むのか、ということに関して、イタリアの作家イタロ・カルヴィーノは、「若いときに読んだ本のなかでもっとも重要なものを、人生のある時間に、もう一度読んでみることが大切だ」と言っている。と、これは朝日新聞「折々のことば」(鷲田清一)で知った。さらに、「だから時を経て読み返すと、自分がどう変わったかを知る、別の新しい出来事が起こる」と言う。

 私が古典を読んでみようと思うのは、そんな大それたことではなく、単に古典に親しみたいからに過ぎない。いいんです、今の私が昔とどう変わったかなんて知らなくても。秋の夜長をぽわ〜んと楽しめれば、それでいいんです。

 

【書】「而還」じかん(No.483)

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 「それから。その後。而後。」(『旺文社漢字典』第2版)

 「而」は、常用漢字にない。これは象形文字で「ひげ」の意。見た感じは「あごひげ」かな。借りて(同じ読みの部分に当て字として使って) 順接の助字の意や「なんじ(お前)」の意を示す。

 「還」の音符は睘(かん)。睘は葬儀のとき、死者の衣装の襟もとに死者の霊に力をそえる玉(ぎょく=○)をおいて、上に生命のあることを証明する目をかく形で、死者が生き還(かえ)ることを願う儀礼である。→白川静『常用字解』

 

【タイムラプス】10月15日(木)5:06〜7:05の伊豆長岡の空。29秒。

https://twitter.com/aisakajiro/status/1317002490789834752?s=21