いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

狩野川に秋の花火の鎮魂歌(あ)

 今日明日とカミさんの休みが取れてあることは、前回来た時にそう言っていたから知っていた。孫の都合がつけば伊豆に連れて来るようなことも言っていた。が、今朝になっても何の音沙汰もない。で、「来るの、来ないの、どっち?」と昼にメッセージを入れたら、孫が住む小田原から何も言ってこないので、たぶんバスケの試合があるのかもしれない、だったら私は疲れているので体を休めることにする、伊豆へは行かないと言ってきた。

 無理して来ることもない、そのほうが私も体を休められる。のだが、来ないなら来ないでもっと早く知らせてこいっつうの。私にだって都合というものが……あるわけではないが、心の準備というものがあるでしょう。

 カミさんは70まで仕事をすると言っているが、最近どうも仕事の行き帰りだけで疲れてしまって、家に帰ると何もしたくなくなるという按配らしい。そんなに頑張らなくても、年金暮らしでいいんじゃないの? と言いたいところだが、家計事情があって、そうも言えない。

 カミさんは昔から、「ほんと、お金に縁がないわね」とぼやくことしきりで、今もそれは変わらない。ということは、今もお金に縁がないわけですが、それでもなんとか暮らしていけるのだから不思議といえば不思議。

 その昔、貧乏学生の頃は金がないくせに毎晩のように酒を呑んでいた。なぜそれができたかは今も謎だが、ともかくそれができた。その時の癖が身に染み込んでいて、植木等じゃないけれど、金がなくても心配すんなと思うきらいがある。その思考回路がカミさんには理解できないらしい。どうしてそんなに能天気なの? と呆れたふうによく言われたものだが、どうもこれは糖尿病と一緒で、死ぬまで治らない病だからどうしようもない諦めろ。

 

【今日の一枚】狩野川台風追悼の花火。

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 狩野川台風が伊豆半島を襲ったのは、昭和33年9月26日のことだった。豪雨により狩野川が氾濫し、死者行方不明者が1,269人という大惨事になった。

 市の観光協会によると、今日の花火は、その犠牲者を追悼する意味を込めて打ち上げられたという。打ち上げの時間は5分だけだったけど、追悼にふさわしい厳(おごそ)かな花火でした。これでコロナ禍も収束に向かってくれるといいのですが。

 狩野川台風の4年前には洞爺丸台風が北海道を襲った。洞爺丸台風の惨状は水上勉の小説『飢餓海峡』に詳しいが、狩野川台風の方はというと、学校図書室の資料以上のことは知らない。が、氾濫した狩野川の水嵩がどこまで達したかは知っている。下田街道から狩野川に向かう途中に、当時の水嵩を記した標識が立っていて、それを見ると、川から溢れた濁流は手を伸ばしてもなお届かない高さだったことが判る。

 いつも行く床屋のお母さんが湯ヶ島のご出身で、10歳の時に狩野川台風を経験したとおっしゃっていた。当時はまだ小学生で湯ヶ島にいた。それで、記憶にあるのは、下田街道にかかる橋(小戸橋ことばし)が流されたことくらいだけど、今のところに嫁いできて、いろんな方から狩野川台風の惨事を聞くにつけ、身につまされる思いがしたという。

 「助けてえ」と叫びながら小さな女の子が親の目の前から流されて消えたこととか、自ら消防団員のトップとして現場の指揮をとっていた人が、ふと自分の家族の安否が気になって一時帰宅したところ、家もろとも濁流に飲まれて命を落としたこと、などなど。

 お母さんが直接体験したことではないけれど、それを又聞きする私にも62年前の惨劇が十分に伝わってきた。

 幸いにも、今私の住んでいるところは高台で、川の氾濫による被害は考えにくい。けれど、斜面に家屋が建ち並ぶ地域だけに、土砂崩れの心配は常にある。熊本で起こったような線状降水帯はいつ発生しないとも限らない。そのことを念頭に置いて、もしそうなった時の物的備えと心の準備を普段から心がけておこうと思う。

 

【書】「血族」けつぞく(No.471)

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 「同じ祖先から分かれ出た親族。血つづき。血胤(けついん)=血属」(『旺文社漢字典』第2版)

 「血」は、祭りの時に神に捧げる生贄(いけにえ)の血を皿に盛った形。「皿」の上の「ノ」が、滴る血を表す。それを意識して赤く彩色した。「族」は、吹き流しの軍旗と矢の組み合わせ。

 

【タイムラプス】10月3日(土)7:05〜9:56の伊豆長岡の空。21秒。

https://twitter.com/aisakajiro/status/1312626425300619264?s=21