いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

万両の実は青青と雨の中(あ)

 昨日(9/25)の朝日新聞コラム「天声人語」に、「わざわざ書くまでもないような ささいなことを ううん わざわざ書いておかないと あとあと喉元(のどもと)過ぎて忘れてしまうだろうから」という白井明大さんの詩があった。

 コラムのタイトルは「空気の日記」。詩人23人が輪番でつづるサイトだそうだ。発案者の松田朋春さんは「コロナで世の中の変化がすさまじい。僕ら詩人の感性で日々を克明に書きとどめる実験です」と言う。

 他にもこんな詩を紹介する。「マスクをする 呼吸をする 暑くてくらくらメマイがする なぜかセカイがくるくる回る(8/6)渡辺玄英」「布でつくられたマスクを 手洗いする朝が いつもの流れにまざって この日常を たやすく認めたら わたしが壊れる(9/9)三角みづ紀」。

 思えばこの夏は、ずっとマスクのしどおしだった。どんなに暑かろうが我慢してマスクをつけた。マスクをつけることが習慣化して、今や「新しい生活様式」になってしまった感がある。今も店に買い物に行くときはマスクを忘れないようにしているし、もちろん職場でも給食以外は常にマスクをはずさない。

 コロナ禍はいつ収束するかの見通しが立たない。ワクチン開発も全世界を挙げて取り組んでいるが、これといった決定打が見出せない。誰が、いつ陽性となってもおかしくない状況の中で我々は生活している。そんな窮屈な暮らしがここまで長引くとは誰が想像しただろうか。

 3月に突然、全国一斉の臨時休校がトップリーダーの口から出た時、私は最後の授業で子どもたちに言った。「君たちは今、大きく揺れ動く歴史の真っ只中にある」と。「何が、どうなっていくのかを自分の目でしっかりと見ておきなさい」と。

 それは私自身に向けた言葉でもあった。

 私がこうしてブログを毎日書くのは、詩人が言う、まさに、わざわざ書くまでもないようなささいなことである。でも、ささいなことをわざわざ書いておくことが、歴史の渦中を生きた証になると「天声人語」から読み取った。

 私は、ささいなことの積み重ねが知らぬ間に私自身の滋養となり、それが画面の向こうの読者とともに自分に活力を与えるエネルギーになっていると思っている。そう思ってこれまでブログを続けてきた。ブログを書くことで、一つを知れば知らないことがもっと増え、また一つ新しいことを知れば、もっともっと知らないことが増える。

 というふうにして毎日ブログを書いているうちに、いつの間にかブログをやめられなくなっていた。今は、書かないと何か大切なことを忘れたような気がして落ち着かなくなる。ブログを始めたときは、まさかそんなにまでなるとは思いもしなかった。

 話を戻そう。

 「空気の日記」というサイトは、コロナによるすさまじい世の中の変化を看過できないという詩人たちの思いから生まれたという。私も、今はまさに世の中の変化の渦中にいるという自覚はあるが、それを、詩人たちのように「すさまじい」と感じる感性を持たない。ただ、相変わらず日常のささいな出来事を拾ってそれを記しているに過ぎない。

 ああ、私にも詩人の感性があったらなあ。

 

【今日の一枚】万両の実。

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 昨日のアオキの下に万両が自生している。その実も今は青。これもまた秋が深まるとともに赤く色づいていく。

 

【書】「目礼(禮)」もくれい(No.464)

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 「目であいさつをする。目で礼意を示すこと」(『旺文社漢字典』第2版)

 「礼」の旧字体「禮」の形が面白い。上部の「干」二つは簪(かんざし)と思ったら、高く盛られた穀物だと。そういえば、「豊」の旧字体は「豐」だったのを思い出した。穀物がみのりゆたかの意ですね。

 

【タイムラプス】9月26日(土)7:02〜9:33の伊豆長岡の空。37秒。

https://twitter.com/aisakajiro/status/1310048199382499328?s=21