いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

陶芸の器干されて夏休み(あ)

 午前4時23分。これは何の時刻でしょう。それは、ヒグラシ(蜩)が一斉に鳴き始める時刻です。

 私が家の裏庭は3mの崖になって隣家と接し、その隣家の向こうに家はない。道路一本隔てて針葉樹と広葉樹が入り混じった樹林が鬱蒼と茂る。ヒグラシの鳴き声はそっちから聞こえてくる。

 ヒグラシは涼しい明け方と夕方にだけ鳴き、日中は鳴かない。ヒグラシが鳴き止むと代わってクマゼミが鳴き出す。こっちは崖と反対側の道路に沿った枝という枝から、ぐわんぐわん聞こえてくる。庭の穴から這い出たやつも鳴き声に加わるから、家はすっぽりクマゼミの鳴き声に包まれる格好になる。やかましいことこの上ない。

 午前8時15分。さてこちらは何の時刻でしょう。そう、75年前の今日、広島に原子爆弾が投下された時刻です。

 青森で先祖代々の墓を守る兄は、広島に原爆が投下された昭和20年生まれで、私より8つ年上になる。兄は終戦直後の混沌の中で幼少期を送った。私はその混沌がひと段落した、原爆投下から8年経って生まれた。

 青森で生まれたのも、原爆投下から8年後に生まれたのも、たまたまでしかない。私の父か母が、そのとき広島にいたら私はこの世に存在しなかったかもしれない。あるいは私自身が被曝していたら……。

 幼い頃、青森の夜空が空襲で真っ赤になったときの様子を母親から聞いたことがある。青森市街は陸奥湾の最南に位置し、陸奥湾の中央に向かって突き出た半島の付け根に私の生まれた村はあったから、ちょうどUの字の端から湾曲した底の部分を見るような格好で青森市街を遠望できたのである。

 戦時中の話は母親からたまに聞いたりしたが、父はほとんど戦争のことを話さなかった。そもそも父は雇われ船頭として秋田県男鹿や北海道知床に出稼ぎに出ていたから、父は出漁しない冬場にしか家にいなかった。

そんな父が、私に一度だけ戦争の話をしてくれたことがある。父は通信隊に所属し、モールス信号を打っていたという。それで、「ハ」は「ツートトト」と打つのだと、人差し指で私の手の甲を叩いて教えてくれた。これを「ハーモニカ」と覚えたそうだ。

 「ハ」以外はどうやって覚えたの? と突っ込んで訊けば、父も得意がって教えてくれたかもしれないが、話はそこから先に発展しなかった。だからいまだにモールス信号は「ハ」以外の打ち方を知らない。大体モールス信号なんて後にも先にも使う機会はなかったが。

 そんな父も今は先祖代々の墓に眠り、数年後に母も同じ墓に入った。さて、私はどうしよう。今は何も考えていない。兄はどうするつもりだろう。義姉は? カミさんは? 息子たちは? 

 来年の4月がくれば68歳。そろそろ、そんなことを整理しておかなければいけない年回りになってきたようだ。

 

【今日の一枚】美術の陶芸で作った湯飲み。

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 私の場合は湯飲みでなく焼酎のお湯割飲み。あとは焼き上がるのを待つだけですが、早くこいつでぐびっと呑りたいものです。

 器の模様は、クラスの子が竹串で描いてくれました。イルカとハートだって。

 

【ディジタル画】桑田次郎(No.69)

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 7月2日に老衰で亡くなった。享年85。

 訃報を知ったのは、8月5日の「静岡新聞」朝刊。これはぜひともディジタル画に描き残しておかねばと思った。

 桑田次郎といえば「エイトマン」ですね。「エイトマン」は克美しげるの歌う主題歌とともにテレビアニメで馴染み、そのシールが欲しいために「エイトマンふりかけ」をよくご飯に振りかけたものだ。

 訃報の記事で、デビューが13歳だったと知った。中学1年からプロの漫画家として活躍していたなんて、凄すぎる。

 

【温泉】一二三荘。

 

【タイムラプス】8月6日(木)4:31〜7:15の伊豆長岡の空。20秒。

https://twitter.com/aisakajiro/status/1291629901645111296?s=21