いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

裸木や朽ちるもの皆美しき(あ)

今週は月曜から金曜まで毎日授業のあるクラスが2クラスあって、何から何まで新規に教材準備をしなければいけない私は自転車操業もいいところ。

それで昨日なぞは、授業でつい「これは已然形でね」とか言ってしまい、あっ、まだ高校の授業を引きずっていると反省しきり。当然ながら教室はぽかんとした顔であふれていた。

それで、今日夕方のgooニュースで「日本の15歳、読解力が15位に急落 国際学習到達度調査」という記事を目にし、読んでみると記事の半ばに、「専門家は原因として、スマートフォンやSNSの普及で子どもたちの読み書きやコミュニケーションが『短文中心』になっていることや、答えのない課題に対処する『課題解決型能力』を養う指導が学校で十分できていないことを指摘する」とあったので、ちょっと突っ込みたくなった。

先生方は努力しています。子どもたち一人ひとりのために献身的に努力をしています。朝は6時過ぎから夜は10時近くまで働いて、誰一人として手を抜こうという邪な気持ちを持つ人はいません。いるとしたら、私くらいなものです。

専門家は知ったか顔で学校の指導不足を指摘するが、「言うは易く行うは難し」で、涙ぐましい努力を惜しまない現場を見たら、そんなことなんかとても言えた義理ではないことは火を見るより明らか。ほんと、大変なんだから。

たから、お願い。読解力急落の責任を、学校教育に全部転嫁するのはやめて。

【今日の一枚】桜の梢。

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先日日曜(12/1)の地域防災訓練の一次集合場所で撮った。赤く色づいた葉を一枚だけ残して来春の満開に備える桜の梢。「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃」と詠んだ西行の思いは奈辺にあったのか。死の近いことを悟って、終の場所をそこに定めたか。

私は終の場所を伊豆に定めたが、それは、最期はここで終えたいと思わせる何かを感じたから。西行にとってのそれは桜だったが、私にとってのそれは、たぶん桜ではない。では、何だろう……。今から咲く準備をしている桜の梢に目をやりながら、そんなことを思っていた。

 

【書】「聞」ブン・モン・きく・きこえる・ほまれ(No.318)

▼甲骨文1

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▼甲骨文2

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▼金文

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形声。音符は門(もん)。甲骨文2の字形はつま先で立つ人を横から見た形の上に大きな耳の形をかいて、聞くという耳の働きを強調した形である。古代の人は耳には、かすかな音で示される神の声を聞く働きがあると考えたのである。神の声、神の啓示(お告げ)を聞くことができる人が聖で、聖職者をいう。甲骨文1の字形は、口のあたりに手を近づけている形で、これは以聞(いぶん=天使に申し上げること)の意味の字であろう。金文の字形は爵(さかずき)に耳の形を添えている形で、神に酒を供えて祈り、神意を聞くの意味を示す。戦国時代(紀元前4世紀〜前3世紀)に至って、音符の門(もん)を加えた聞の字形になった。(後略)<『常用字解』より>

 

【温泉】一二三荘。

 

【タイムラプス】12月3日(火)5:42〜7:20の伊豆長岡の空。24秒。

https://www.facebook.com/100001436582002/videos/2682619428462584?d=n&sfns=mo