いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

雨含み紅葉静かに枝垂れけり(あ)

最近、ブログのアップが帰宅してからの夕方になることが多くなった。

9月からフルタイムで働くようになり、朝の時間に余裕がなくなったのが主な原因。一日3時間勤務だったときはたっぷり余裕があったので、アップする前にブログを読み返すことができたが、今はそれができない。職場の仕事は日に日に忙しさを増し、今ではすっかり仕事に追われる日々になってしまった。

毎日ブログを書くというのが、これまでとってきた私のスタイルであるにしても、周囲の環境がそれを許さなくなってきたのであれば、無理して毎日書かなくてもいいんじゃない? と思ったりもする。

もともとブログは、好きなことを、好きなときに、好き勝手に書いて「ともだち」とつながるコミュニケーションツールという側面があるから、別に書かなくたってどうということはないはずだ。

そうなんだけど、私が毎日ブログを書き続けているのは、私自身があることにこだわっているからで、それは、亡母が生前、居間の神棚にその日の朝に炊いたご飯を毎日供え祈っていたことに関わる。

供え祈るという点では、亡母は神も仏も区別しなかった。祈る対象が神であれ仏であれ、知ったこっちゃないという(いい意味で)いい加減なところがあった。というか、神も仏も一緒だという意識があったように思う。神も仏も祈る対象としては同体だった。それは特に亡母に限らず、当時の人々は誰でも持っていた感情ではないかと思う。

私はここで東日本大震災のことを思わないではいられない。今から8年前の2011年に起こったあの震災である。私は直接被害に遭ったわけではないが、押し寄せる津波がやすやすと町を飲み込んでいくテレビの映像に慄然したものだった。

自然の威力に対して人間としてなすすべがない限界を思い知らされた。同時に生きたくても生きることが叶わなかった人々の無念に胸を痛めた。それで私にできることは何かを考えた。考えて、どんなことがあってもブログを書き続けることが鎮魂の祈りになる、私にできることはそれしかないと思った。生きることが叶わなかった人の代わりに精一杯生き、その生きた証を残すことが私の使命だと思うようにした。しんどいけど、震災で犠牲になった人の心痛を思えは、そんなものは屁でもない。

なかなか時間の取れない中でのブログアップだけれど、ここで絶やすことはできないの一心で踏ん張っていこうと思います。

 

【今日の一枚】庭の枝垂れ紅葉(手向山)。

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枝垂れ紅葉は年に二度紅葉する。イロハモミジに比べて鮮やかさは見劣りするけれど、しっとりした味わいがあります。

 

【書】「敏」ビン・さとい・つとめる・はやい(No.305)

▼甲骨文

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▼金文

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会意。古い字形によると、もとの字は毎と又(ゆう)とを組み合わせた形。毎は髪を結い髪飾りをつけた婦人の形。又は手の形。髪飾りに手(又)をそえ、髪飾りを整えて祭事に敏(いそし)む(つとめはげむ)ことを敏といい、怠らずすばやく祭事をつとめることを敏捷(動作がすばやいこと)という。それで「つとめる、すばやい、はやい」の意味となり、敏捷に祭事に敏むことから、「さとい、かしこい」の意味となる。(後略)<『常用字解』より>

 

【温泉】一二三荘。

 

【タイムラプス】11月20日(水)5:28〜7:31の伊豆長岡の空。30秒。

https://www.facebook.com/100001436582002/videos/2653340694723791?d=n&sfns=mo