いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

思ひ出も滲みてひとりのおでん鍋(あ)

不便であることで得られる利益を「不便益」という。「たて書きコラム」の「編集日記」(福島民友新聞)で知った。

便利なことばかりを追い求める現代にあって、果たしてそれでいいのだろうかという疑念は私にもある。そりゃ、富士山の頂上まで登れるエレベーターがあれば便利に違いないが、それで頂上まで登ったとしても抱く感動はそれほどでもないのではないかと思う。やはり、一歩ずつ踏みしめながら登るのが大事なのであって、それがあればこその感動なのでしょう。

残された人生をどう生きるかを考えたとき、この「不便益」という考え方は私の心にストンと落ちる。見渡せば、この世に不便に感じることはたくさんある。でもその不便をあえて楽しみたい。

私には子孫に残すほどの蓄えがない。だから、欲しいものが買えないという不便はあるが、それで不幸せだとは思わない。欲しいのを我慢すれば済むだけのことだ。雨漏りする築43年のぼろ家だって、建て替える資金がないという事情もあるが、ひとまず雨風をしのぐだけの佇まいにはなっている。

先日も、リフォーム業者さんが挨拶にきていたが、自分流にちびちび直すのが楽しいと告げた。そう、不便を楽しむのである。私は、これからもずっとそのつもりでいる。

 

【今日の一枚】一人鍋おでん。

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朝夕めっきり冷え込んで、こうして朝ブログの下書きをする指もかじかむようになった。そろそろ石油ヒーターの出番かもしれない。

こんなときの晩酌に手っ取り早いのがレトルトのおでん。レトルトならじっくり煮込まなくても、もともと味が染み込んでいるから土鍋に入れて温めるだけでいい。なんなら、ガンモドキとかシラタキとか、お好みの具材を足すのもあり。

その昔、横浜駅西口のビブレ前の川沿いに、おでんの屋台が何軒か並んでいた。職場の宴会の二次会だったかどうか、一度だけそこのおでん屋に入ったことがある。あの頃はさほどおでんを好んではいなかった。どうしても食いたいと思って入ったわけでもなく、寒いからちょっと温まっていこうかといった程度で入ったのだと思う。そのとき一緒に入った人が誰だったかは覚えていない。だけど、あのとき食ったおでんを旨いと思ったことは覚えている。

横浜のおでん屋の味には及ぶべくもないが、こうして手軽におでんを味わえるようになったことをありがたく思う。熱々の土鍋おでんをフーハーフーハー言いながら口に運び、40年前に屋台で食ったおでんのことを思い出しています。

 

【書】「賓」ヒン・まろうど・もてなす(No.304)

▼甲骨文

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▼金文

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会意。宀(べん)と万と貝(ばい)とを組み合わせた形。宀は祖先を祭る廟(みたまや)の屋根の形。万は犠牲(いけにえ)の動物の後ろ足の形。廟の中に犠牲の後ろ足と呪器(じゅき)としての貝とを供えて祭り、神を迎える儀礼を賓といい、もと廟の中に迎える神、客神(他から来た異族の神)の意味であった。のち人についていい、「まろうど(まれびと。他から来た客。客)」の意味に用い、客として「もてなす」の意味にも用いる。死者をかりもがりする(埋葬する前に、しばらくの間遺体を棺に納めて安置する)ことを殯(ひん)という。

 

【温泉】一二三荘。

 

【タイムラプス】11月19日(火)5:28〜7:33の伊豆長岡の空。31秒。

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