いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

翁の手の匂ひやさしき竹落葉(あ)

【今日の一枚】坪庭風の玄関脇。

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竹の枯葉に埋もれていた玄関脇を整頓した。奥は下屋風に波板屋根を張って薪置場にしてある。そことの境の仕切りに、かつて「孫、飛び出し注意!」用に作った竹棒の門扉を、もう一度麻紐で編み直して立てかけてみた。

どうですか、どことなく老舗料亭の坪庭のように見えるでしょ?(なんて)

ここの古竹のエリアに新しい竹が生え出て、どこまで伸びるかと見ていたら、あっという間に2階ベランダに届いてしまった。萩原朔太郎の、

「かたき地面に竹が生え、

 地上にするどく竹が生え、

 まつしぐらに竹が生え、

 凍れる節節りんりんと、

 青空のもとに竹が生え、

 竹、竹、竹が生え。」

の勢いです。

節節からいい塩梅に細い枝が生えていて、夏休みに入ったらこれで竹ストローを作ります。50本くらいできそう。

なんだか、このところ、庭いじりが面白くなってきた。ここをああしたいこうしたいという思いが次々に湧き出て、とどまるところを知らない。

自分の手塩にかけたものは、何でもそうだけど、愛着がわきます。庭も同じ。草ぼうぼうに放ったらかしにしていた頃は、愛着の「あ」の字もわかなかったけど、ちまちま庭木の下草をむしり出したあたりから、ちょっと愛着がわいてきた。きれいにむしり取った後から草が生えてくると、見苦しく感じるようになったものね。変われば変わるものです。

隣の奥さんのようにマメに手入れをするわけではないけれど、前と比べれば格段の違いで庭に手間暇かけるようになりました。ガーデニングを楽しむといった趣からはほど遠いけれど、庭いじりを楽しむ人の気持ちが少しだけ判りかけてきたような気がします。  

【書】「射」シャ・セキ・いる(No.182)

▼甲骨文

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▼金文

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古い字形(金文)は弓と又(ゆう=手の形)とを組み合わせた形。弓に矢をつがえて射る形で、「いる」の意味となる。のち弓と矢の部分を誤って身とし、[説文(せつもん)]五下には「弓弩(きゅうど=弓と石弓(いしゆみ))、身より發(はっ)して、遠きに中(あた)るなり」としているが、身はみごもっている女を横から見た形で、これに寸(手)を加えても弓を射るの意味とはならない。矢は神聖なものであるから、弓を引いて矢を放つことは場所を祓(はら)い清めるときの重大な儀礼として行われた。のち鉄砲を撃つの意味に用いる。<『常用字解』より>

甲骨文にも金文にもある、弓のパーツ上部の突起は何を表しているのだろう。それがずっと気になっている。アーチェリーの「サイト」みたいなものだろうか。でも、歴史に登場するのは弓の方がはるかの昔であってみれば、その推理も当たらない。う〜ん、よく判らない。

判らないといえば、弓と矢のパーツがどうして「身」と誤って書くようになったのかも判らない。判らないで射を「いる」意味で使っている。だから漢字は厄介だと思うか、だから漢字はミステリアスだと思うか。そこで漢字に対する人の思いは分かれるのだろう。もちろん私は後者です。

 

【タイムラプス】7月11日(木)5:38〜8:03の伊豆長岡の空。36秒。

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