いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

白梅の咲いて友の死知りにけり(あ)

高校の同級生が亡くなったという知らせを受けた。なんの前触れもなく、心筋梗塞で自宅の布団の中で冷たくなっていたと、訃報の新聞記事を見て自宅に駆けつけた、これも同級生(クラス会幹事)が知らせてくれた。
亡友は津軽民謡で有名な西津軽郡の出身で、高校3年のときに同じクラスになった。青森市街の下宿屋に住まい、そこから高校に通っていた。高校最後の夏にねぶた祭りでハネトの衣装をまとい、一緒に跳ねた仲だった。
私が大学でサッカーに明け暮れていた頃、彼は2年浪人してから私の下宿先近くの大学に入学した。実家がお寺さんで、次男坊の彼は城下町弘前のお寺さんの後継として養子に入ることになっていると語っていた。そして、大学卒業と同時に永平寺に入り、そこで修行を積んだ後は、語っていたとおり弘前のお寺の住職になり苗字も変わった。
大学3年のとき、私は下宿先を田園都市線の上野毛に移し、中学でも高校でも同じクラスだった友と、今で言うルームシェアをした。ルームシェアといえば聞こえはいいが、要は、だいぶくたびれた、トイレと台所はあるが風呂のない一軒家。それを二部屋ずつ二分して貸していた物件を見つけ、そこに二人で引っ越した。家賃は月2万だから一人当たり1万で二部屋を使えた。
その頃、亡友は自由が丘の六畳一間を借りて、そこから大学に通っていた。下宿先が同じ田園都市線ということもあり、自由が丘の焼き鳥屋で3人して呑んでは管を巻いていた。
大学4年を過ぎて、青森に就職先を見つけたルームシェアの友は東京を去った。それを機に私は川崎の新丸子に下宿先を変えた。多摩川を越すと下宿代ががくんと安くなると知ってそうした。その話を聞いて、東京の税務署に勤めていた、これまた高校の同級生が新丸子に引っ越してきた。
亡友は同じ自由が丘の下宿先のままだったが、ちょうどその頃、新丸子にコインランドリー(当時は珍しかった)の店ができたことで、たまった洗濯物を持って新丸子まで来たりしていた。
そうこうするうちに、私は7年目の大学生活に入り、彼は永平寺に入ったことで会う機会はしばらく途絶えた。
その彼とは、脳卒中で倒れた父親を病院に見舞うために青森へ駆けつけたときに再開する。意識の戻らない父の顔を見たあとに青森駅近くの居酒屋で呑んだ。彼は弘前から駆けつけてくれた。私が青森へ来るというので、東京で一緒に遊んだ仲間にも声をかけ、その日はルームシェアだった友も税務署の友も駆けつけ、4人でしばし久闊を叙した。
その後も高校の同窓会やクラス会に出るたびに彼に会い、尽きない昔話に花を咲かせることとなる。その彼がある時のクラス会で私のブログに触れ、「毎日書ぐの、大変だべさ」とねぎらってくれたことを懐かしく思い出す。私が毎日書くことを知っているということは、毎日ブログを見てくれているということだ。
ありがたかった。そう言われてから、私の頭には常に彼の存在があった。あいつが私のブログを読んでいてくれる。よし、今日も頑張って書かなくちゃ、伊豆から元気を届けるぜ。そんな気持ちにさせてくれる存在だった。
その彼が突然亡くなった。もう私のブログを読んでくれなくなったことは痛恨の極みだが、私はこれからも書き続けよう。あいつとの思い出をいつまでも忘れないために。


【写真】学校敷地内の白梅。

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三分咲きといったところか。こちらは実を結ぶ梅で、それこそ梅雨の晴れ間に、保護者のボランティアの手で収穫される。


【書】「舊」(No.20)

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「旧」の旧字体。これは「學」の字のように、みなさんご存知、と片付けるわけにはいかない。「舊」のどこにも「旧」のパーツが見えないから、「旧」の旧字体だとほとんど誰も気づかない。
そこで、例によって『五體字類』の出番。「臼部」に見える異体字にこの字を見つけた。この字のパーツに「旧」が使われている。新字体を考案するときに、この字を参照したことは間違いない。
アプリ「Zen Brush 2」で初めて楷書を書いてみたが、始筆、終筆がうまく決まらず、何度も書き直した。行書、草書、篆書は書きやすいが、楷書をこのアプリで書くのはきつい。隷書は書いたことがないけれど、これも楷書同様、まともな字を書くのに苦労しそうだ。


【温泉】一二三荘。


【タイムラプス】1月25日(金)6:29〜7:26の伊豆長岡の空。28秒。

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