いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

亡き友の字の書き癖や賀状書く(あ)

【写真】年賀状の版画。

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毎年、賀状には版画を彫っている。ハガキが62円に値上がりしたこともあり、今年はどうしようかと一瞬思ったが、やっぱり彫ることにした。題材は干支の亥が蕎麦を打っている図。蕎麦は一回しか打っていないけど、今年はこんなこともやったよと賀状を受け取ってくれる人に知ってもらいたくてこれに決めた。今日は彫るのに疲れたので、刷るのと宛名書きは明日にする。
賀状に版画を彫り始めたのは教員になった最初の年だから、今年で39年目になる。その間、版画を彫らない年はなかった。だから、歴代の版画板は今年のも含めて39枚あるはずだが、それがどこに仕舞ったものか、横須賀から平塚へ、平塚から藤沢へ、藤沢から伊豆へ引っ越すうちに判らなくなってしまった。版画板など一度彫ればもうそれきりで、後から使うことはない。きっと、どこか開かずのダンボールの底にでも沈んでいるのだろう。捨ててはいない(たぶん)。
パソコンで絵を描くようになっても、インクジェット紙のハガキが発売されるようになっても、こうして今でも版画にこだわっている。パソコンに宛名を登録し、それ用のソフトを使えば、プリンターで楽に刷れるし出し忘れもない。それを承知の上で、あえて版画を彫るのはこだわり以外の何ものでもない。おかげで宛名を書くのはいつも暮れのギリギリになって、元旦に間に合わないことになるから、いつの頃からか「元旦」と彫らなくなった。
こんなふうに手間暇かけるのは、受け取ってくれる人がどういう気持ちで私の版画を見てくれるかを想像するのが楽しいから。市販の出来合いのハガキでもある程度の気持ちは伝えられるだろうけれど、私にはそれだとどうしても物足りない気がするのです。
先日、作家・池波正太郎の年賀状に対するこだわりのことを書いたが(12/18)、年賀状のやり取りの習慣を良しとして残すか、悪しき旧習として捨て去るかを思うとき、私にはどうしても旧習として捨て去ることができない。
若者は、そういう私を古臭い人間だと笑うだろう。それでもいい、私は手作りにこだわりたいのだ。手書きにこだわりたいのだ。
新しい年を迎えた瞬間にスマホで「あけおめ」と送るのもいいが、誰の指が打っても同じ活字なのは味気ないと私は思う人なのである。

年に一回くらい手書きにしたっていいではないか。手書きの字はその人そのものを映し出す。見慣れたその人の字を見ると心がほっこりする。それが手書きの良さだ。字の上手い下手は関係ない。あなたのためにこの一枚を書いたよという気持ちが伝わるのは、それが手書きだからである。私はそう思っている。


【温泉】一二三荘。


【タイムラプス】12月28日(金)6:54〜9:06の伊豆長岡の空。32秒。

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