いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

数へ日や血の騒ぐことまだありて(あ)

【写真】金魚ねぶた作り。

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現在、「学級活動」の時間などを利用して、クリスマスのペーパークラフトを作っている。その作業が終了し、次にやることがない子が出たので、その子のために「金魚ねぶた作り」を提案した。
針金の太さは14番。私が家から用意した。タコ糸は教室で以前使用したらしい余りが残っていたので、それを使った。糸は凧揚げ用に100円ショップでも売られているもので、4本で縒ってあるのを1本ずつにほぐした。ケチくさいといえばケチくさいが、これで4倍の糸が取れるし、1本にほぐしても強度は全く問題ない。かえってつなぎ目がゴワゴワしないので紙を貼りやすいという利点がある。以前ねぶたを作った時も同じようにした。
ねぶた作りを最初に始めたのは、茅ヶ崎の高校で3年の担任をしている時だった。文化祭のクラスの出し物に何をするかという話になって、「ねぶたをやってみないか?」と私から提案したのだった。
当時の生徒は、ねぶたがどんなものか知らなかった。それで私が黒板に絵を描き、ハネトの姿に扮して踊って見せた。そうしたら、面白そうと興味を示してくれて、そこからねぶた作りが始まった。
ねぶた作りは体育館下のピロティで行い、紙を貼る糊は体育準備室のコンロを借りて小麦粉で作った。
出来上がったねぶたをリヤカーに積み、正門横に飾った。後夜祭では延長コードをつないで中から明かりを灯し、キャンプファイヤー(あの頃はまだキャンプファイヤーが許される時代だった)で盛り上がるグランドに繰り出して暴れ回った。後夜祭のプログラムのどこに書かれていない飛び入りだったもので、ほんと、あの時は大変申し訳ないことをしました。若気の至りとお許しください。
それから私は県の最西端、定時制、養護学校と3校渡り歩き、12年経ってからまた横浜に戻った。戻ってきて2年後、その高校は別の高校と統合して新しい高校になった。その別の方にはたまたま茅ヶ崎で一緒に学年を持った人がいて、ある日、その人と帰りのバス停で一緒になった時に、「ねぶたをやらないか」ともちかけられた。新しい学校で何か面白いことをやろうと思っている、ついては私にねぶたをやってくれというのである。あの茅ヶ崎の時のお祭り騒ぎが強く印象に残っていたのかもしれない。
では、やりましょうかと私も乗り、それからです、毎年ねぶたを作り続けたのは。
新しい学校の2期生の担任になってからその学校で退職を迎えるまで、10年作り続けました。三島の高校で非常勤講師をしていた時も作りたいという生徒がいて、一緒に作りました。
作り終えた時はもうヘロヘロになって、二度と作るもんかと思うけれど、なんだろう、血が騒ぐというんだろうか、夏になると妙に胸がじゃわめいてまた作りたくなったりしたものです。
しばらくねぶた作りから遠ざかっていたけれど、作りたいという子が現れて、久々に胸がじゃわめいています。たぶんこれが最後だろうな。


【温泉】一二三荘。


【タイムラプス】12月13日(木)5:58〜7:42の伊豆長岡の空。25秒。

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