いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

立春や新しくまた知るひとつ(あ)

【写真】吉田松陰宿泊跡碑。

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この碑は大仁郵便局の脇にある。水晶苑や一二三荘の行き帰りに通る道だが、これまでその存在を全く知らなかった。知ったのは、ひらい精肉店でもらった「大仁梅林散歩地図」を見て。

碑には「安政元年4月11日」と刻されている。安政元年とはペリーが日米和親条約締結のために再航した年で、黒船は下田に停泊した。
そのとき吉田松陰は、「金子重之輔と二人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで旗艦船ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船した。しかし、渡航は拒否されて小船も流されたため、下田奉行所に自首し、伝馬町牢屋敷に投獄された」(Wikipedia)。
一方、下田市の公式サイト<http://www.city.shimoda.shizuoka.jp/category/100400shimodanorekishi/110778.html>では、「日米和親条約(神奈川条約)を締結したペリー艦隊は嘉永7年(1854)3月18日から21日にかけて、下田に順次来航します」「目的を果たしたペリー艦隊は嘉永7年6月1日帰国のため、下田港を出港しました」とあり、「ペリー艦隊の下田滞在は約70日を数え」たと記されるが、吉田松陰の「事件」のことは一言も触れない。市としては投獄された罪人のことは触れない立場、ということなのでしょう。
さて、となると、吉田松陰が大仁に投宿したとされる安政元年(嘉永7年でもある)4月11日だが、この日は渡航の企てを秘めて金子重之輔と下田へ向かう途中だったと思われる。事件を起こして自首してきた罪人を江戸送りするのに旅籠に泊めるほど幕府も寛容ではなかろう。
と思ったら、違った。
「大仁郵便局は『名主杉村氏屋敷跡』。嘉永7年(1854)4月、下田から江戸に護送途上の吉田松陰が杉村氏宅に宿泊」<http://home.e02.itscom.net/tabi/shimoda/3ohito.html>だって、へええ。
それにしても、吉田松陰という歴史的人物の扱いがこうも違うとは面白い。下田市は歴史からその名を消したが、伊豆の国市は「先生」扱いで歴史に残した。碑に刻んでくれたおかげで、こうして一人の歴史的人物に思いを馳せることができるのはありがたい。
去年5月、大仁駅前に「まちすけ」という観光案内所ができた。まだ行ったことはないが、ここは単なる観光案内所の役割だけでなく、いろんな講座や教室を開いたり、地元の土産も販売されている由。昨秋に商店街の古写真を展示する催しがあったらしいが、私は見損じている。残念に思って、この前石井米店で弁当を買ったときにご主人(この人が「まちすけ」のまとめ役)に、また古写真展をやるなんてことはないですかと訊いてみたら、去年展示できなかった写真がまだ古い家に残っているかもしれないので、それらを集めてまたいつか展示会をやってみようと思いますと、嬉しいお返事をいただいた。その日が今から楽しみです。
大仁のことはまだまだ知らないことだらけだけど、吉田松陰の碑のように、今まで知らなかったことを一つひとつ知ることで、どんどん大仁のことが好きになっていきます。

【温泉】一二三荘。

【タイムラプス】2月4日(日)6:27〜8:24の伊豆長岡の空。29秒。

https://www.facebook.com/aisakajiro/videos/10215474031986142/

【歩数】689歩。