いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

屋号残る地を二月の川流る(あ)

校外学習で伊豆仁田にある特別支援学校(分校)まで子どもたちを引率。
6名の子どもたちが二人ずつペアで1年から3年までの各教室に分かれ、そこで一緒に授業を受ける。各学年はそれぞれ1クラスしかなく、1校時は1年が数学、2年が国語、3年が学活(卒アル作成)を行い、私は担任の先生と手分けして各教室を行ったり来たりしながら様子をデジカメに収めていく。
2校時から4校時までは一斉に「作業」の時間になり、4班ある(園芸、木工、陶芸、清掃)作業のうち、清掃班だけが学校を離れて作業をするというので、私は清掃作業を体験するペアについて行くことにした。養護学校勤務時代、私が担当した作業も清掃班だった。
清掃作業場所は、学校から10分ほど歩いたところにある公民館。清掃用具は担当の先生の車に乗せて運んだ。担当の先生の話によると、三島駅に行ったり伊豆長岡駅に行ったりして清掃活動をするそうだ。駅構内のガムを剥がしたり、酔客の汚物まで処理するというから本格的だ。
ペアの清掃分担箇所は公民館の大ホールの床と窓。同じ場所だったので様子をデジカメで撮るのに助かった。箒の持ち方や掃き方、まとめたゴミをちりとりに掃き入れる方法、ダスターモップを8の字を描くように扱う様、水で濡らした窓をスクイジーを使ってきれいにするやり方など、見て懐かしいものばかり。今日のような寒い日も、ツナギを着て外で窓拭きをやったっけなあ、あの子たちは今どうしてるだろう、元気に仕事してるかなあ……。一所懸命清掃作業をする子たちを見つめながら、しばし感慨にふけったことだった。
昼は3年のクラスの子たちと一緒に手作り弁当を食べ、午後はそのまま同じクラスで卓球を楽しんだ。最後に1年のクラスを覗いたら、筆ペンを使って俳句を書いていた。なるほど、筆ペンという手があったか。筆ペンなら墨汁であちこち黒くしなくて済む。よし、学校へ戻って、一つ筆ペンで字を書いてみるべえか。学級費あたりから筆ペンの代金出ないかな。

【写真】公民館にあった屋号マップ。

f:id:jijiro:20180202080449j:image

さすが、伊豆の豪族仁田四郎忠常生誕の地とあって、昔ながらの屋号が今も残っている。
仁田忠常は、頼朝旗揚げの韮山・山木判官邸夜襲に加わり、奥州藤原攻め等で手柄を上げ、頼朝の信が厚かったという。

【スケッチ】農作業を終え、家路につく農婦(下描き)。

f:id:jijiro:20180202080505j:image

写真集には昭和20年代とある。終戦間もなくの風景だろうか。
私は昭和28年、青森の陸奥湾に面する貧しい村に生まれた。家は半農半漁で、父は雇われ船頭として秋田や北海道に出稼ぎ、母は田畑で野良仕事をして私を育ててくれた。
私の記憶の最も古い風景は、稲刈りを終えた田んぼの藁塚である。藁塚の上に上って遊んだ、かどうかまでは記憶にない。が、乾いた田んぼで野球をしたことは覚えている。畦道の脇を小川が流れ、小川の上には稲架がけに使った長い棒が積まれてていた。
写真には藁塚が3基写っている。こうして見ると、やはり子どもがあの上に上るには無理な高さに見える。

【タイムラプス】2月1日(木)6:36〜8:03の伊豆長岡の空。21秒。

https://www.facebook.com/aisakajiro/videos/10215443470582126/

【歩数】11,626歩。