いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

いにしへの地図に日の射し寒明くる(あ)

【写真】昭和45年の大仁町の地図。

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地理の授業で地元大仁町の勉強に入った。
社会の先生は授業の最初に模造紙大の大きさの地図を教室のテーブルに広げ、子どもたちを呼んで自分の家がある場所を探してごらんと言った。私も一緒になって自分の家を探す。
その地図には田方地区(函南町、伊豆の国市、伊豆市)の平成28年版と昭和45年版とが左右に並んである。国土地理院にお願いして、地元の地理を勉強するのに特別に作ってもらったのだそうだ。
子どもたちが自分の机に戻って地図記号の勉強に入ってから、私は広げられたままの地図の、特に昭和45年版をじっくり眺めた。
昭和45(1970)年といえば、今から48年前。私は高校生で、大阪万博が行われ、よど号ハイジャックがあり、三島由紀夫が割腹自殺した年である。
私の家がある場所の道路はどうなっていたかを改めて見ると、東側の斜面下に道路がないことに気づいた。ということは、以前、スケッチに描いた「クリーム色の家」と「レンガの家」は当時はまだ存在していなかったということになる。昭和45年以降の高度経済成長の波に乗って財を蓄えた人が、新しく開発された道路沿いの土地を買い求め、そこに豪邸を建てたわけか。
田京駅周辺はどうなっていたろう。目をそっちに転じると、下田街道の西側に三日月湖が見え、かつて狩野川はここを流れていたと知れる。ちょうど今の「みんなのハワイアンズ」のところだ。川の流れが一つ西側に移り、土手を盛って整地した元河川敷に時之栖株式会社が娯楽施設をつくったことになる。
その三日月湖の下田街道を挟んだ東側に「広瀬神社」の活字が伊豆箱根鉄道の線路に重なって記されている。一つの社にすぎないのに、あたかも地名のような扱いだ。ちなみに大仁神社はどういう扱いをされているかと見ると、こっちは鳥居の記号があるだけ。やはり広瀬神社は、その土地の守り神としておろそかにできないという意識が地図を作る人にあったのだろうか。
私は小さい頃から地図を見るのが好きだった。地図を見ながらいろんな空想をするのが好きだった。それは今も変わらない。地理の授業が終わるまで、ずっと広げられた地図を眺めては当時の景色を想像ながら時間散歩をしていた。

【スケッチ】大正5年頃の大仁商店街(No.21)。

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シャープペンシルの下描きを漫画ペンで描き直そうかとも思ったが、変にくっきり整いすぎて、それこそ漫画のような線になってしまうといけないと思ってやめた。
風景画の人物を描くのは相変わらず苦手だ。今回も顔の輪郭の影が濃すぎた。それでもこれまでの人物に比べれば少しはマシな格好になったか。
たぶん濃紺の法被を着ているふうに見えたのでそのように描いたつもりだが、黒がやや強すぎたかもしれない。右肩から腕にかけては背景の店の影の色と被ったので、綿棒を濡らして色を抜いた。水墨画ではこういう調整ができない。そういう点では水墨画より淡彩画の方が描きやすい。

【温泉】一二三荘。

【タイムラプス】1月30日(火)6:19〜7:57の伊豆長岡の空。24秒。

https://www.facebook.com/aisakajiro/videos/10215422852106677/

【歩数】4,374歩。