いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

寒鴉やや嗄れて囲碁のまち(あ)

【写真】木谷道場跡地の碑。

f:id:jijiro:20171224121116j:image

かつてここに囲碁の木谷道場があった。碑には「囲碁界に尽くされた木谷實九段は昭和十四年から昭和五十年まで この地の自宅を木谷道場として 多くの内弟子を育てた(略)」と刻されている。
私が知るだけでも、大竹英雄、石田芳夫、加藤正夫、趙治勲、小林光一、武宮正樹、小林覚と、錚々たる面々が内弟子として名を連ねる。
現在、呑兵衛囲碁リーグ戦の会場となっている平塚の人は、この人たちと同じ小学校に通い、小学生だった彼らの日常をよく知っていると言う。
私もかつては平塚のアパートに10年ばかり住んでいたことがあり、ただ住んでいたというだけで接点は何もないのに、木谷門下の方々には何とはなしに親しみを覚えるところがあります。
私が碁を始めたのは、今から34年前の秋。囲碁歴こそ30年を超えているが、所詮ヘボ碁であれからちっとも上達していない。好きこそものの上手とならず、下手の横好きのままである。
なぜ34年前の秋だと覚えているか。それは担任として初めて修学旅行の引率をした一日目の夜だったから。
修学旅行では夜の見回りと称して、消灯時間を過ぎてから生徒が部屋を行ったり来たりしないように廊下を見回ることをする。その時に私とペアを組んだ先生が碁を打つ人で、私に碁を教えてやると言って職員用の部屋から碁盤を持ち出し、こうやってここで廊下に出る生徒を見張って入ればいいと廊下のど真ん中で碁のいろはを始めた。それが私が碁を覚えた最初である。
ちょうどその頃、私と同じように囲碁覚えたての仲間がどっと増え、職員室の放課後のソファはさながら囲碁サロンのごとくに賑わった。横浜にある温泉施設で一泊の囲碁合宿を張ったりもした。強くなりたくて趙治勲の囲碁入門書を買って密かに勉強したりしたが、腕前は一向に上がらなかった。
2校目の茅ヶ崎の職場でも囲碁が盛んだった。3校目の湯河原の職場ではもっと盛んだった。湯河原には梅林で有名な幕山があり、その幕山の麓に藤沢秀行名誉棋聖が毎年合宿を張った温泉民宿がある。そこで年2回囲碁愛好者が10人ほど集まって一泊しながら碁を打った。若かりし頃の依田紀基九段の色紙が飾られてあり、棋風と同じような鋭い筆跡だったのが印象に残っている。その職場には4年いたが、4年碁を打ち続けてもまるで上達しなかった。
平塚の定時制時代には棋力が似たり寄ったりの碁敵がいて、他に碁を打つ人がいなかったから、ほとんどその人とばかり打っていた。
それからはしばらく碁から遠ざかることになり、今年の水晶苑デビューで再開を果たす。ということは再開までかれこれ20年近くのブランクがあったのか。
縁あって水晶苑の囲碁サロンの仲間入りをさせてもらい、一方、平塚では今年9月から呑兵衛リーグ戦が新たに始まった。
その呑兵衛リーグ戦の今日は第4回。戦績は1勝2敗の負け越し。ルールに則って次回は1級として打つことになる。前回もそうだが今回も序盤の布石が全くデタラメで、それが苦戦を強いられる原因なのは自明。次回までにもう少し布石を勉強しなくちゃいかんな。

【タイムラプス】12月23日(土)6:25〜8:24の伊豆長岡の空。29秒。

https://www.facebook.com/aisakajiro/videos/10215075398780561/

【歩数】9,113歩。