いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

栗の毬割れて五年の月日かな(あ)

まったりとした日曜日。
6時に起き、コーヒーを淹れ、タイムラプスをセットしてブログを書く。
ここで、書くのが小説とかならカッコいいのだが、才能も感性のカケラもない私に小説なんて書けようはずもない。ひたすら駄文を書き綴って惰眠をむさぼるのがオチである。
何かしらを毎日書いていれば、そのうち芽が出て花が咲いて実が生るのなら書き綴る甲斐もあろうというものだが、ブログを5年書き続けてもまるでそんな気配がない。
それでも書くことをやめないのはどうしてだろう。最初の2、3年は「生きた証を形に残したい」という思いと、東日本大震災を経て「生きたくても生きられなかった人への祈り」の意識があって、何としても書かなければ、ここでやめるわけにはいかないという気持ちが強かった。
それは今も確かにあるのだけれど、ここ数年は、ただ単純に「書くこと自体が楽しい」という気持ちが強くなってきたように思う。
書くことに時間が割かれれば本を読む時間はその分削られるのだけれど、それでも、書くのが楽しけりゃそれでいいんでねえの、と思っている。
「何ごとも、人生、楽しむのがいちばん」と心得て、楽しいと思うことを存分に楽しんで、気がついたら、あれ死んでいた、とまあ、そんなわがままな人生でありたいと思っているのです。

【写真】南隣の空き地の栗。

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南隣家のその隣は、私が今のぼろ家を買ったときからずっと空き地のままである。その空き地に栗の木が2本ある。栗の木の枝は車道に覆いかぶさり、向かいのホテル(休業中)従業員用駐車場の2本の桜の木と、ちょうど緑陰のトンネルを作るような格好になっている。
ここの栗は車道に直に落っこちるから、人に拾われる前に車に轢かれる。これまで轢かれても惜しくないようなやせ細った栗だとばかり思っていたが、夕方散歩に出た折に落ちていたイガ栗を見たら、どうしてどうして立派な栗で見直した。
俗に「桃栗三年柿八年」と言うが、伊豆に住み始めて今年で5年目、痩せっぽちだった栗もようやく一丁前に肥えてきたということか。
ところで、この「……柿八年」の後には続きがあって、「桃栗三年、柿八年、梅はすいすい十三年、梨はゆるゆる十五年、柚子の大ばか十八年、蜜柑のまぬけは二十年」という。
仏教臨済宗では、このことの本来の意味を「人生一つのことをやり遂げるのに、努力をした人は三年、努力を怠った人は二十年かかる、だから人間は努力することが大切」と説く。
その謂からすれば、さしずめ私などは「蜜柑」の後、さらに、「……お前のような薄鈍は何年経っても実がならぬ」と続くに違いない。

水墨画】瀧(No.68)

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瀧は、水墨風景画の代表的モチーフで、ぜひ描きたいと思っていた風景画の一つ。
瀧の下の方を、淡くかき消すようにぼかすのがポイントと手本にあり、そこのところはなんとか思ったように描けたかな。水の落ち具合に多少のスピード感も出たし。

【タイムラプス】10月8日(日)7:00〜9:35の伊豆長岡の空。38秒。

https://www.facebook.com/aisakajiro/videos/10214438201851036/

【歩数】2,347歩。