6月に入った。
無職の生活を2ヶ月やってきて、そろそろ財布の中身も心細くなってきた。「金は天下の回りもの」と言うけれど、そんなのは多少の稼ぎがあるから言えることで、稼ぎがない人のところには金は回ってこないんだなということがよく分かった。
金は貯めるものではなく使うもの、と昔から思っている私は、その信念に基づいて金をどんどん使おうとするが、カミさんはそう思わない。私の真逆で、もしもの時のために蓄えは絶対に必要と考える。私の金の使い方を常に監視し、使い方に無駄と思われる要素があれば(私は無駄に使っているつもりは毛頭ないが)、般若の角をむき出しにして私の前に立ちはだかる。
「もしもの時のため」って、これからの老後の生活で「もしもの時」といったら、私は「死ぬ時」くらいしか思いつかないのだが、カミさんは違うらしい。その不確かな「もしもの時」のために、無駄遣いを慎みせっせと蓄えなければいけないと主張する。金は墓場まで持って行けないんだから、生きているうちに使った方がなんぼいいかと私が言っても、自分の主張を頑として曲げない。
今のところ私の収入は2ヶ月おきにいただく年金だけだが、これとてカミさんが管理する口座に振り込まれるから私の財布に入ってこない。だから、物入りの時はその都度恐る恐るカミさんにお伺いを立てなくてはいけない。
何が窮屈って、これほど窮屈なことはない。それで、せめて呑み代くらいは自力で稼ごうと、今は市のシルバー人材へ登録しようかどうか考えているところです。
【写真】水晶苑の燕の巣。
玄関先の吹き抜け天井にある。燕が巣に帰ってきても餌をねだる雛の口が見えなかったから、まだ卵の状態なのかもしれない。孵化するのはもう少し先の、川に蛍が飛び交う頃だろうか。
卵から孵った雛が黄色い嘴をいっぱいに開けて親燕から餌をもらおうとする姿は、微笑ましくもあり、懸命に生きようとする思いが直に伝わってきて、思わず頑張れよと声をかけたくなってしまう。
そういえば先日、水晶苑で一緒になったクラリネット3時半氏が、修善寺駅舎でのクラシック演奏会の時に(5/27)、頭上すれすれを燕が行ったり来たりしていたと話していた。たまに糞が楽器を汚すことがあるとも言い、とても演奏しづらかったという調子ではなく、逆にそれが楽しかったというふうだった。
修善寺駅舎内のコンビニの看板の上に燕の巣があることは知っている。たぶんそこの番(つがい)が行ったり来たりしていたのだろう。あいにくその日は孫の世話で演奏会には行けなかったけど、3時半氏から話を聞いて、その時の様子が手に取るように想像できた。きっと燕も生の演奏を聴けて嬉しかったんだと思う。
【淡彩画】坂のある風景(No.89)
ポイントは「道幅が手前側で大きく見えていることに注目し、道や屋根の形をよく見比べながら描く」こと。
前回は輪郭を濃く描きすぎたので、今回は意識して淡いタッチを心がけたつもり。
【水晶苑】13:55〜15:17(4→3人)
思いがけない時間帯で看板氏と一緒になった。今日は午前中ずっと雨だったから、それで看板の仕事がお休みだったのかなと思って訊いたら、仕事は休みではない、これから市役所まで書類を出しに行くのだと言う。
2020年の東京オリンピック・パラリンピックで修善寺が自転車競技の会場になったものだから、一つ看板を立てるのにもいちいち市役所へ行って許可をもらわなくてはいけない、伊豆の国市は景観条例が厳しい、また、韮山反射炉が世界文化遺産になったことで、近隣の住宅の屋根や壁の色も市の認可を得なければならない、富士山の見える新幹線だって線路から50m以内に看板は立てられない、などなど、看板屋さんならではの、へええそうなんだの話が聞けて楽しかった。
【タイムラプス】6月1日(木)6:50〜8:56の韮山方面の雨空。31秒。
https://www.facebook.com/aisakajiro/videos/10213158927509977/
【歩数】2,890歩。