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いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

梅咲いてまた一つ年重ねたる

【写真】蕾が綻びはじめた庭の梅。

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「梅が枝」という言葉はあるが「桜が枝」という言葉はない。古来、日本人には梅を枝ごと愛でる心があったからだろう。
我が庭の梅は、つい先日、俄に剪定を終えたばかりで、とてもとても愛でるような枝ぶりではないのだが、それでもこうしてぽつぽつ咲き出すのを見ていると、その質素なたたずまいが何ともいい感じなんだなあ。
花の咲く前にと慌てて剪定したけれど、剪定が間に合ってよかった。これが枝という枝にびっしり花をつけた日には目も当てられない。梅はこうしてポツリと咲くのが興趣があるというものです。
今のぼろ家を購入した頃、カミさんが樹皮の剥げた幹を見て、「病気じゃないの? 切っちゃったら?」と、いとも簡単に言ったものだ。私はその時、「いや、時季が来たら花が咲くかもしれないから切らないでおこう。咲かなかったら病気だと観念して、それから切っても遅くはない」と、残すことを主張した。
そうしたら、その翌年の春、見事に白い花を咲かせた。毎年梅の花を見るたびに、ああ、あの時切り倒さなくて良かったとつくづく思う。切っていたらきっと今頃は後悔していたんじゃないかな。
「春さればまづ咲く庭の梅の花独り見つつや春日暮さむ」(『万葉集山上憶良)の歌。春になるとまず最初に庭に咲く梅の花を、私一人で見い見いして春の日を過ごすことなどどうしてできましょう(いや、できません)の意。
山上憶良は、独りで愛でても寂しいだけだから、皆とわいわい楽しいひと時を過ごしたいと詠むが、皆でわいわいやらなくても、独りだって十分楽しめます。
桜だとこうはいかない。
「ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ」(『古今集紀友則)の歌。こんなにものどかな春の日差しの中を、どうして桜の花びらは慌ただしく散り急ぐのでしょう、の意。
絢爛豪華に咲き誇る先に、つい散り際を見てしまうからだろうか。桜にはどうしても儚さがつきまとう。それが歌人の歌心をくすぐるのかもしれないが、やはり私の好みは桜ではなく梅に傾く。
梅の枝に止まる鶯は絵になるが、このところひっきりなしに我が庭にやってくる鶯は梅の枝には止まらない。夾竹桃や枇杷、椿の枝に止まる。これらは常緑で、常に緑の葉を茂らせているから身を隠すにはちょうどいいのだろう。葉の陰に隠れてチッチッチチと鳴いている。まだホーホケキョとは鳴けない。
梅の見頃はまだまだ先で、花は3月の上旬まで楽しめる。気象庁によると、今年の静岡の開花は昨年より2日早いそうだ。昨年は大仁の梅林と湯ヶ島の月ヶ瀬梅林に行ってきたが、今年は修善寺梅林に行ってみたい。行って、名物・鮎の塩焼き(600円)を食ってみたいと思っている。(あ)

【タイムラプス】1月18日(水)6:33〜8:47の伊豆長岡の空。33秒。

【あやめ湯】18:35〜19:13。4→6人。

【歩数】4,198歩。