いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

柿落葉一葉のまだ枝にあり

真は、庭の柿の木。実が二つ生っている。

f:id:jijiro:20161119162653j:plain

庭には柿の木が2本あって、これは奥の柿の木。今年は実が生らない年だとばかり思っていたら、二つ生っていた。
最初目にしたのは、葉がすっかり落ちた枝にしがみついている一枚の朽ちた葉だった。午前の仕事を終えて帰宅したら庭の奥に見えた。柿の葉は今朝からの雨で粗方散ってしまったんだな。そしてこの一枚だけが最後まで残った。よく頑張ったな。よし、では散り落ちる前に、最後の一枚を今年の見納めに撮ってやろう。そう思って近づいたら、そこでようやく柿の実が、ぽつん、ぽつんと、二つ生っているのに気がついた。
二つだけじゃ収穫しても仕方ないから、そのまま木守柿(きもりがき・こもりがき)として鳥の餌にでもしてやろう。
木守柿は、来年もよく実るようにとのまじないで、木の先端に一つ二つ取り残しておく柿の実(デジタル大辞泉)で、俳句では冬の季語として扱われる。先日この季語を使って「一年待て次は主役の木守柿(11/9)」という句をものしたが、いやはや赤面ものの駄作である。詩情が何も感じられない。センスがない。それでもコツコツ作っていけばそのうち物になる作品が一つや二つはできるだろう。そう期待して日々俳句作りに励むのだが、その期待とは裏腹にまるで進歩がないのだから情けない。
それで昨日、こんな句に出会った。
うらを見せおもてを見せて散るもみぢ 良寛
朝日新聞デジタル」の「折々のことば:581 鷲田清一」(11/18)に載っていた。こういう句は誰にでもできそうな気がするが、できない。「うらおもて」のない良寛だからこその句だ。こういう句を作りたいが、「うら」を見せきれない私には到底できない。けだし俳句とは、自然の景物と己の奥底の魂とが、切っても切れない糸で結ばれているようなものでなければいけない。
この句の解説に、哲学者・鷲田清一は「華やかな一色に染まり、盛りとともに風に吹かれてさっと散る、その散り際がよしと愛でられる桜よりも、寒空に散るもみぢを好む人は多い。傷跡もふくめ、風雨に晒されてきたその姿をまだらに染めつつ、一葉一葉、そっと枝から…」という。
「傷跡をふくめ、風雨に晒されてきたその姿」をもみぢに見るところが良寛という人なのだろう。同じ自然に囲まれて生活する身でも、落ち葉を掃くのが面倒だと見る私とは、そこが決定的に違う。だから私は、センスがないと言うのである。
ところで、「そっと枝から…」という尻切れトンボで終わっているこの解説は、残り75文字あるのだが、残りも続けて読みたければ金を払え(月額980円)とあって、無料会員はその先を読めないようになっている。先月末からだったか、それまで無料で1日3本の記事を読むことができていたのに、ある日突然1日1本しか読めなくなった(セコいぞ、朝日新聞)。「天声人語」と「折々のことば」だけは、全文をEvernoteに保管してきていたのだが、1日1本しか読めなくなって、やむなく「折々のことば」を捨てた。
保存はしなくなっても「折々のことば」は解説の前半までは毎日見ている。あらゆる方面にアンテナを張り巡らし、きらりと光ることばを探し出す哲学者の目の向けどころを見たいと思うから。(あ)
あやめ湯(17:12〜17:48)3→3人。

1,707歩。