いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

我が家のサンタはキャラメル工場から

写真は、放課後児童教室の玄関に飾られたクリスマスツリー。

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私は、こういう飾りには全く興味がないのだが、女性スタッフは嬉々として飾り付ける。みんなでわいわいがやがややっているのを、私はただ手持ち無沙汰に眺めるだけ。こういう賑わいの輪に入っていけない。行き場がなく、独りスタッフルームでゴミ入れの紙箱を折ったり、図書コーナーの本を読むでもなく手に取ったりして子どもたちが登所してくるのを、今か今かと待つのである。

私の子どもたちが小さい頃は、玩具のクリスマスツリーを買ってやったりしたが、飾り付けそのものはカミさんと子どもたちがやった。私はその横でビールを飲んでいるだけだった。

では、私が子どもの頃はどうだったかというと、それが思い出せない。枕元の靴下に、朝起きたら明治キャラメルが入っていたのは覚えているが、クリスマス飾りは覚えていない。たぶん飾ったことなどないのだと思う。当時、クリスマス飾りは高価なもので、半農半漁の暮らしには手が出なかったに違いない。母は生前、テレビに映るクリスマス商戦の華やかさを横目に見ながら「家(おらえ)だば、クルシミマスだじゃ」とよく口にしていたものだ。実際、家計は苦しかったのだと思う。

昔は「通帳(かよいちょう)」というのがあった。家の隣が魚屋で、魚以外に駄菓子も売っていた。その魚屋では現金がなくても通帳があれば買い物ができるようになっていた。店の人に買った品名を通帳に書いてもらい、お金ができたときに支払うという仕組みだ。

父は雇われ船頭として漁のシーズンは出稼ぎで家を留守にした。出稼ぎでまとまった金をぼんと持ってくる家だったので、こういう通帳の仕組みはありがたかった。

それを悪用して、私は親に内緒で駄菓子を買ったことが何度かある。内緒と言ったって買った証拠が通帳にしっかり残るのだから親にはバレバレなわけだが、でも、そのことで親から大目玉を食らったことはなかった。

全体、私は母に叱られたことがない。ここは絶対叱られるな、と思った時でも母は叱らなかった。だから通帳を無断で使ったことがバレても叱られないという読みはあったのかもしれない。でも、通帳の額に目を落としながら「わい、どすべ(あれまあ、どうしましょう)」と母に嘆かれると、ああいけないことをした、母を困らせてしまったという自責の念に駆られるのである。

一方、父はというと、これが年に半分以上家を留守にする人だったし、家にいる冬場でも「酒コ」「まま(ご飯)」「寝る」しか言わない人だったから、父とは話という話をほとんどしたことがない。さすがに手を上げるようなことはなかったが、威圧感があってどこか近寄りがたかった。

そんな父が、年の瀬も押し詰まったある日、正月飾りの紙垂(しで)を黙々と作っていた姿はいまでもはっきり覚えている。紙垂とは、注連縄にぶらさがっているひらひらした紙のことだが、これを、ごつい指で丁寧に折っていたのだ。

その時の父の姿を思い浮かべながら詠んだ句が、

掌厚く村守る注連作

である。男は、家を守る、村を守るという気概を持って飾りを作るのである。クリスマスのようなチャラチャラした飾りとはわけが違うのである。(あ)

タイムラプスは、11月18日(金)6:20〜8:47の伊豆長岡の空。

https://www.facebook.com/100001436582002/videos/1253577858033422/

あやめ湯(18:36〜19:12)3→6人。

4,260歩。