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いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

葛の花また一週間が始まった

写真は、田京駅から家に向かう道に咲く葛の花。

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葛は、歩く道の上の、ちょうど手を伸ばせば届きそうなところまで垂れ下がっていて、赤紫の花が鮮やかです。
葛の花を見るたびに、釈迢空の「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」が思い出される。教科書にも載る有名な歌である。
30年ほど前、この歌を詠んだ釈迢空本人の肉声(テープレコーダーに吹き込んだもの)をたまたま聴いて、以来その節回しが頭から離れない。他に、齋藤茂吉、与謝野晶子などの肉声も聴いたはずだが、今ではすっかり忘れてしまい、なぜか釈迢空の肉声だけが私の記憶に残った。なぜだろう。当時の私の心とぴたり重なる調べだったからだろうか。
この歌を♪春のうららの 隅田川〜♪の作詞者の武島羽衣は「幼稚な歌」と評した由だが、いったい歌のどこが幼稚なのか。読んでぱっと情景が思い浮かぶし、「、」「。」の句読点の間合いが絶妙ではないか。♪櫂のしずくも 花と散る♪ほうが、よほど陳腐だと思うがどうだろう。
また俳句では、飯島晴子の句に「葛の花来るなと言ったではないか」がある。実はこれ、タイトルの参考にと「葛の花」「俳句」で検索して見つけた句で、見た途端これだ! と思った。そうです、こういう句を作りたいんです。
いつもそう心がけていながら、その思いとは裏腹に私のひねる十七音はちっとも俳句になってくれない。下手な鉄砲も数打ちゃ当たるとこれまで千発以上打ったけど、的に当たった玉は一発もないのだから嫌になる。
この句、「来るなと言ったではないか」と非難する気持ちと「葛の花」がどう結びつくか。なぜ葛の花でなければいけないかということだけれど、これは俳句をひねるときによく生じる問題で、季語がぴたりとはまれば「うまい!」句になるし、別にその季語でなくてもいいんじゃないの? となれば「(感動がどこにあるのか)よく分からない」句になる、ということです。
それで「葛の花」を、例えば「薄の穂」「曼珠沙華」「女郎花」などと置き換えてみる。薄は、どこかもの寂しい感じ、曼珠沙華は、その真紅の彩りが主張を強く感じさせ、女郎花は、繊細な女性らしさを思わせる。
では「葛の花」はどうかというと、大きな葉に見え隠れする感じが、曼珠沙華ほど主張は強くないが、それなりに信念を持っているふうである。これに「来るなと言ったではないか」をくっつけると、詰問するような雰囲気は薄まり、あれほど来るなと言ったのになんで来たんだ、お前に迷惑かけたくねえと思って、山奥で余生を一人静かに送ろうと思っていたのに来ちまいやがって、でも来ちまったものはしょうがねえ、ともかく家ん中に入れ(どうも強引なストーリー展開だな)、と、相手をきっぱり拒絶するのではなく、しょうがねえなあと受け入れる寛容さが生まれる。
「来るなと言ったではないか」という非難の裏には、「だけど来てくれて嬉しい」という思いが隠されていると私はこの句を読んだ。それは「葛の花」がそうさせたのである。「薄の穂」や「曼珠沙華」「女郎花」ではダメなのである。(あ)
あやめ湯(18:33〜19:12)3→3人。
6,614歩。