いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

春光の気や朝雲の隙間より

写真は、今朝7時の東の空。あっ、K画伯の絵に似てる、そう思ってマンションのベランダに飛び出して撮った。垂れ込めた乳白色の雲の割れ目から朝日の光が漏れている。K画伯はこのような絵を好んで描く。好んでというか、ほとんどそういう絵しか描かない。口の悪い呑兵衛友達は、画伯の絵を称して、どうしてもお尻のようにしか見えないと言うが、その評については画伯本人も否定しない。生命の原点だと応じる。

お尻と言われればそう見えなくもないが、お尻とは婉曲な言い方で、もっと直接的に言えば、それは生命の生まれ出ずる荘厳の縁そのものと言えよう。我われは全てそこから生まれ、混沌の世界に解き放たれた。右も左も分からない中で我われは授かった命を生きていく。ふくよかで優しい光に包まれながら何にでもなれる自分になってゆく。そしてその優しさは画伯自身の人間を見つめる優しさに他ならない。

K画伯は、私が退職した横浜の職場の元同僚で、私が退職する2年前、一足先に退職している。一年置きに銀座の画廊で個展を開き、昨年も案内状をいただいて口の悪い呑兵衛と見に出かけた。いや、呑みに出かけた。だいたい個展最終日の、それも終了30分前に現地合流ねと連絡を取り合う時点で魂胆は見え見えである。画伯の絵はさくっと流し見て、後は画伯と銀座で呑みたいのである。

その日、画伯はボタンダウンシャツにジーンズ姿で呑兵衛二人の到着を待っていてくれた。作品を買う気なんてさらさらない客に、畏れ多くも自らお茶を運んでくれる。奥さんの鋏によるという短く刈られた頭髪も現役時代のままで、ますますもって創作意欲旺盛なのは、その顔の血色の良さで分かった。

現役時代、画伯の時間割作成のプロフェッショナルぶりは衆目の一致するところであった。時間割作成にはかつて私も一度だけ携わったことがあるが、最終の仕上げに芸術的センスというか何というか、そのような目で全体を見渡すことが必要になる。ただ機械的にコマが埋まればいいというわけにはいかないのだ。ひとまず埋まったところで授業を担当する人の身になり、一人ひとりの持ち時間のバランスをチェックしていかなければならない。そこにセンスが求められる。仕上げは美しくなければいけないのだ。この美しい仕上げのために一切妥協しなかったのが画伯だった。それは正に一つの完璧な芸術作品だった。

多くのお孫さんに囲まれながら、なおエネルギッシュにカンバスに向かう画伯を見習い、よし私も頑張らなくちゃと雲間の朝日に思いを強くしたことだった。(あ)

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5,910歩。