いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

春一番水たまりだけ吹き残す

昨年4月25日からタイトルに俳句を使ってきた。俳句というか、五七五のリズムを刻んだ「句」ですかね。自分で作っておきながら、どうもこいつは俳句じゃないなと思われるものが多々あって、もう少しひねれば俳句らしくなるかもしれないと思いつつ、ブログをアップする時間に追われて不本意ながらタイトルに据えてきたというのが正直なところです。
句はブログを書き始めた当初からずっと作ってきた。今では千句を超える。最初は、いわゆる俳句にこだわらずに、川柳っぽいものでも何でも、肩肘張らずにとにかく五七五に刻むことを心がけてきた。題材は毎回添える写真に合わせるようにしている。これは、森村誠一の「写真俳句」を意識してそうしている。だから、ブログの内容とまるでかけ離れたタイトルになったりもするが、そんなことは気にしない。
なるべく写真に合わせて句を作るようにはしているけれど、かといって作句を意識して写真を撮ることはない。道を歩いていて、あっ、これ面白いと思えるようなものや、後で何かの足しになるかなと思ったものを目にしたときにパシャっと撮るだけである。見た瞬間の風景を切り取ってたちまち俳句をぽんとものする人がいるけれど、私にはそれができない。タイトルの句はブログの下書きを終えた後に、撮りためた写真を見ながら作っている。すぐぱっとできることもあれば、30分1時間かかってもできないこともある。
最近は意識的に季語を入れている。季語なんて面倒臭い古臭い、季語に縛られたくないと思ったりもした時期もあったが、四季折々の自然と一体の暮らしに憧れれば憧れるほど、やはり季語ってのはうまくできているもんだと今更ながらその価値を再認識しているところである。
辻桃子『季語って、たのしい』(邑書林)で、師と仰ぐ阿波野青畝の言葉として著者は「よい俳句を作るには、まずものを見なくてはならない。深く見ること、じゅうぶん心にひびくところまで見なくてはならない。それには愛の気持がかんじんで見ようと思わねばなにもならないのである」と唱えていることを紹介する。それを私は、俳句を作るうえで大事なのは、何事も慈しみの心をもってじっと見つめることだと理解した。
せっかくなので、もうしばらくタイトルに俳句を、そう、慈しみの心で作った「俳句」を使っていこうと思っている。
写真は、雨上がりに残った水たまり。旧国道1号線の引地橋に出る道で、左の白いフェンスの下を引地川が流れる。孫と鯉に餌(食パン)をやるとき、この道を通ってスーパーに買いに行く。水たまりには雨雲の通り過ぎた青空に桜の枝が映し出され、一ヶ月先の出番を静かに待っていた。(あ)

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12,,480歩。