いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

行く秋や夕映え犬の影伸ばす

朝、通学路の坂を上りながら、仕事の片付けを4時くらいに終えることができたら今日も歩いて帰ろうと思った。しかし、天気予報は午後6時以降に雨が降るとのこと。何とも微妙な時間帯の雨の予報ではあった。

日中の真っ青な空を教室から仰ぎ見て、とても雨が降りそうに思えなかった。でも女心(男心)と何とかというくらいだから、夕方あたりから一天俄かにかき曇って一雨来るのかもしれない。出るときに雨が降っていなくても、途中で降られる可能性はある。無理に歩いて帰らずとも、今日は電車で帰るのが無難かもしれないな…。授業が終わる頃まではそんなふうに思っていた。

いや、それにしても今日の澄み切った空の青さは何としたことだろう。空色ではない。まさに原色の青色絵の具をそのまま溶かしたような、吸い込まれそうな色なのである。中学校の美術の時間に、原色の青をそのまま画用紙に塗ったら、こんな色の空はないと先生に叱られた色。その色が今日の修善寺の空にあった。

東京には空がないと高村智恵子は言った(実際は高村光太郎が詩に書いた)。ここでいう空とは、実際の灰色の都会の空ではなく、心の安らぎが得られる場所を象徴しているのでしょう。だから、空がないということは智恵子にとって東京は心安らぐ場所ではなかったということ。福島の安達太良山の麓に智恵子の生家はあって、そこの空間が智恵子には本当の空だったのです。

では、私にとって修善寺の(あるいは伊豆の)空はどんな空なんだろう。今日の昼、あの吸い込まれるような青空を見たとき、私はそのあまりの青さに心震える思いがした。こんなまっ青な空を今まで見たことがあったろうかと思った。なんて素晴らしい空なんだと思った。今の満ち足りた思いがまさに溶け込んだような色だった。

授業の提出物をチェックし、夕方4時半前に校門を出る。目論んだ時刻に少し遅れた。西の空は厚い雲が夕陽を覆って焼けていた。雲は厚いけれど、雲の上にはまだ青空が残っていたので、この分ならもしかしたら雨が降ってくる前に家にたどり着けるかもしれないと思って歩き出した。

昨日と同じく狩野川の土手を歩く。今日は時間が遅いせいか釣り人は一人もいない。代わりに犬を連れた人と多くすれ違った。こんにちは、こんにちは。知らない人にもちゃんと挨拶を返してくれる。ただ挨拶を交わすだけのことなのに、これが何とも清々しい。やっぱり伊豆っていいなあ。(あ)

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13,456歩。