いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

墓洗う脇のベンチに亡父の字

6,030歩。

横須賀の義父の七回忌。義母は達者で今年で92歳になる。毎週木曜に義母の介護に行っているカミさんの話によると、前回介護に行ったときに今日の七回忌のことを話したら、お弁当が食べられると喜んでいたという。カミさんは、まったく能天気なんだからいやになってしまうと言っていたが、食欲旺盛で結構ではないか。

義父にはだいぶお世話になった。私は大学4年まで東京の世田谷のアパートに下宿し、その後多摩川を越すと家賃が格段に安くなるという理由だけで川崎の新丸子に引っ越した。その頃は既にカミさんと付き合っていて、カミさんの実家がアパートを経営していることは知っていた。

新丸子の平屋アパートに暮らして2年目に、実家のアパートに空きができたので来ないかとカミさんから誘われた。同じアパートに住むんだったらウチに住めばいいと父も言っているとのことだった。ではお言葉に甘えてそうさせてもらいますと話がまとまったら、アパートになっている二階部分の5部屋のうちの二間を繋げ、我々の居住用に作り変えてしまったのには驚いた。

大学7年目はそこから東京まで通い、品川と上大岡で学習塾のアルバイトをしながら卒論を書いた。大学を卒業して横浜の高校に就職が決まってからも、平塚の教職員アパートに移るまでの3年間は横須賀から通勤した。その間に長男が生まれ、次男が生まれた。義父は初孫をたいそう可愛がり、孫を風呂に入れることをこの上ない喜びとしていた。風呂から上がった後の私との晩酌もとても楽しみにしてくれた。

私は義父の思い出話を聞くのが好きだった。義父は宮城県の農家の出身で、先の太平洋戦争では横須賀の海軍に入隊し、戦後そのまま横須賀に住みついたという。京浜急行がまだ三崎口まで通っていなかった戦後まもなくの横須賀の観光地といえば鷹取山だった。その鷹取山に売店を出し、毎日家からラムネを背負子に積んで運んだ。やがて観光組合長の職に就き、剣道の奉納試合を催したり、義母の実家の馬堀海岸で貸しボートをやったりして子ども三人を育てる。そのうち剣道の腕を買われ新設したばかりの近所の高校で剣道を教え、晩年は請われて競輪場の警備隊長もやった。

とにかくじっとしているのが嫌いで、いつも動き回っていた。胃を3分の2摘出した後も義母に隠れてタバコを吸っていた。餅搗きは生前からの年末の恒例行事で、私が横須賀に転がり込んだ年から続いているから、今年もやるとすれば36年目になる。餅搗きの眼目はこねることにありとは36年前に義父から教わった。そのとき教わったコツを今は義兄の息子に私が教えている。

義父の墓は京浜急行の駅を見下ろす高台にある。生前中に墓はそこと自分で勝手に決めてきた。私も一度いいものを見せてやると義父に案内されたことがある。そして、どこから運んだか知らないが、墓参者が休めるようにとプラスチック製のベンチを墓石の横に据えた。それには大きく◯◯専用と書いてある。ガラクタを見つけるのが得意だった義父の御霊は、墓石の下ではなく、ベンチに残された直筆のいたずらっぽい字にあるような気がした。(あ)

f:id:jijiro:20151003105220j:plain