いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

糸巻きの染み千年の絹涼し

この丹後半島周遊の旅の期間中も休まずブログをアップするつもりでいたが、旅行3日目の朝に寝坊をしてしまい、2日目の記事をアップすることができなかった。それで今日の午前中に2日目を、午後に3日目をまとめてアップした。

よく知る読者から、毎日よく続きますねえと言われたことがある。私自身もよく続くよなあと思わないでもない。また、どうでもいいようなことをだらだら書き連ねることに何程の意味があるのかと思ったりもする。単なる自己満足にすぎないのではないかと。

しかし、一方ではまたこうも思う。自己満足で何が悪い。意味のない人生で何が悪い。生きることに意味を持たなければ生きる価値がないというのか。そもそも生きる意味って何?

私にとって生きる意味とは、ひたすら生きること、そのことに尽きる。どういう生き方がいいのかというのは関係ない。どんなに辛くても苦しくても生きること、どんなことがあっても死んではならないということ、生きたくても生きられなかった人のために生きること、私は今、生きることの意味をそのように捉えている。

死んだら何もできない。どんな些細なことでもいい、生きているからできること、そのことを大事に毎日を過ごしていきたい。側からみればどうでもいいようなことでも、私にとってはどうでもいい些細な一つ一つが生きることなのです。

8月15日が近づいて少し感傷的になっているかもしれない。私がこの世に生まれたのは玉音放送の年から8年後である。しかし、私の幼い記憶には既に戦争の傷跡はない。戦争で生き残った父と母が懸命に生きようとした中で私は生まれ、貧乏の中で私は育った。家にお金があったらもっと楽な生活ができるのになといつも思っていたけれど、それは敗戦国民共通の思いだったかもしれない。バナナは風邪を引いたときしか食えなかったし、リンゴは売り物にならない腐ったものしか食えなかった。それでも両親は私を大学まで行かせてくれた。そして今の私がある。

両親の生きた歳まで生きられるかどうか分からないけれど、晩年は夫婦仲睦まじくゲートボールにいそしんでいたように、私も生きてあることのありがたさをかみしめながら、さりげない日常を坦々と楽しんでいければいいと思う。

8,501歩。

写真は、正絹の糸が巻かれた糸巻き。今回の丹後半島周遊の旅の最後の見学地となった蛭子山古墳資料館で買った。500円。買ったときは気づかなかったが、かつて現役で使われていたような骨董の形跡が随所に見える。伊豆のぼろ家に飾ればそれらしい雰囲気が出ると思って買ってはみたけれど、さてどこに飾りましょうか。(あ)

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