いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

母の記憶

先月末までハロウィン一色だった街の装飾が、11月に入った途端、たちまちクリスマスモードに様変わりした。たった一晩でのみごとなお色直しである。これから年末まで、街はクリスマス一色に染まる。ハロウィン期間は、特にそれ用の音楽が流れることはなかったが、クリスマスとなればそうもいかない。街でも、テレビでも、ラジオでも、至るところで、いい加減にしてくれというくらいクリスマスソングで溢れかえる。

「クリスマスって言(へ)たって、わだば苦しみますだじゃ」。この時期になると、亡き母は毎年のようにそう言ったものだ。誰に向かって言うともなく、自分に言い聞かせるように、ぽつりと寂しく言うのだった。私の幼い頃からずっと苦労しどおしだった母が亡くなって6年になる。87歳だった。畑仕事の傍ら、化粧品の訪問販売をしたり、精神科の病院看護師の補助(たぶん看護師の資格は持っていなかったと思う)をしたりして、家計を支え、4人の兄姉弟を育て上げた。病院の仕事をしていた頃は、夕食の団らんで、その日に起こった様々なことを、臨場感たっぷりに私に話して聞かせてくれたりもした。それが、いかにも楽しそうに話すものだから、私も聞いていて実に楽しかった。たぶん、いろんな苦労があったはずだが、母はそれを表面に出すような人ではなかった。母には、苦しみを楽しみに自動的に変換するといった稀有な才能があったのではないか。どうもそんな気がする。
母に対するいちばん遠い記憶は、鰰(はたはた)漁の雇われ船頭として男鹿半島に出稼ぎしていた父を訪ねたときの記憶である。バス停からZ形の急な細道を降りたところにある番屋の前でドラム缶風呂に入ったこと、波で浸食された洞窟に舟で連れて行ってもらったこと、入道崎の灯台に上ったこと。これらの全ての風景の中に母は確かにいたはずなのだが、しかし、私の記憶する風景にはなぜか出てこない。母の姿が鮮やかに記憶されるのは、男鹿半島に向かう奥羽本線蒸気機関車の中で食べたカップの「アイスクリン」が出てくるシーンなのである。母は進行方向を背にし、向かいに座った私に「ほれ、食べへ」と言って、車内販売で買った冷たいカップアイスを手に渡してくれた。それはこの世で初めて口にするアイスでもあった。そのときの得も言われぬ柔らかい母の微笑みが、記憶のいちばん下に今でもはっきり残っている。5,283歩。
写真は、若かりし頃の母。立っているのが私。膝の上に抱えられているのが弟。男鹿半島を訪ねたのはたぶんこの頃だったか。母の笑み甘き記憶のアイスクリン(あ)

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