いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

立ち食いそばの思い出

秦野へ出勤。最近は疲れが取れないせいかどうか知らないが、電車で居眠りすることが多くなった。今日も真鶴あたりからうとうとし、危うく小田原駅で乗り越しそうになった。危ない、危ない。

秦野の職場を出るのは12時半頃になる。玄関を出ると、小雨がパラパラ降っていた。折り畳み傘はいつもバッグに忍ばせてあるが、この程度の降りでは開くまでもなかろうと、傘を差さずに駅まで歩く。折り畳み傘は使った後の始末が面倒で、いつも持ち歩いていながら、最初から傘を差さざるを得ない場合には大抵ビニール傘を使う。
秦野勤務の日は昼食をどこで摂るかが悩ましい。秦野駅に着くのが午後1時少し前で、ここで昼食を摂れれば時間的にはちょうどいいのだが、秦野駅南口界隈はランチを提供してくれる店がほとんどない。繁華な北口に回れば、その手の店が多少はあるのかもしれないが、改札を通り越してわざわざそっちへ回る気も起こらない。というわけで、昼食は小田原駅箱根そばに落ち着く。ここを逃すと、ホームの売店で買ったおにぎりを電車で食うか、伊豆長岡駅到着まで待たねばならない。そうなると昼食は午後3時になってしまう。それはあまりに遅すぎる。だから、小田原の箱根そばなのだ。
大学時代、学食の立ち食いそばは、ほとんど毎日と言ってもよいくらいよく利用した。当時、天ぷらそばが確か100円だったように思う。そして、それが朝食と昼食を兼ねていた。中庭のベンチに腰を下ろし、左翼系学生運動の立て看板を眺めながらそばをすする。そう、あの頃の大学キャンパスは、内ゲバの血なまぐさい闘争が続いていて、独特の字体で書かれた大きな看板が、それでなくても狭い中庭に我が物顔で立っていたものだった。学生会館の自治会本部室の窓は刑務所のような頑丈な鉄格子がはまっていたし、対立派の襲撃に遭って頭を割られたといったような話は日常茶飯事だった。一度、ある私鉄の駅で、ものすごい数の白いヘルメットの集団が、到着した電車からどどっと降りてきた場面に出会したことがある。あのときは身の毛のよだつ恐怖を覚えた。こんな大集団に襲われたら一溜まりもないと思った。
あれから40年、大学はノッポビルに生まれ変わった。5年ほど前、新しくなったキャンパスに一度だけ足を運んだことがあったが、梅本のそばを食んだ中庭は跡形もなく消えていた。5,892歩。
写真は、三島の御殿川沿いの紫陽花。三島田町駅から職場へ向かうときにいつも通る道です。せせらぎの音を集める萼紫陽花(あ)
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