いずぃなり

伊豆でのシニアライフ

駄菓子屋の孫たち

孫の世話。私は伊豆から、カミさんは藤沢からそれぞれ孫の家に向かう。孫を預かり車を走らせたが、カミさんも私も朝食を摂っていなかったので、途中にあったほっともっとに立ち寄った。店は大雄山線相模沼田駅前にあって、駐車スペースが結構広い。さながら駅前ロータリーの様相を呈している。その駐車場に隣接して駄菓子屋があった。孫たちはそれを目敏く見つけ、車のドアロックが外れるや否や、一目散に駆け出した。店内は中央の島に駄菓子がびっしり並んでいて、10円、20円、30円、50円と値札の書かれたシールがそれぞれの箱に貼ってある。なぜか40円というのがない。そういえば、私のガキ時代の駄菓子屋も40円という値札はなかったような気がする。大体、40円分も出せば遠足で友達と駄菓子交換するくらいの量は買えた。私が駄菓子屋で印象に残っているのは、キャラメルが箱単位でなくバラ売りされていたこと。確か小学1、2年だったような気がする。1円で紙に包まれたキャラメルが2個買えた。1個だけでは売ってくれない。だって、1円出されても釣銭を返せないから。

駄菓子の記憶はキャラメルから包装紙も鮮やかなロッテ・ガーナチョコの登場までぼんと飛ぶ。初めてあの包装紙を見たのはいつだったろう。初めてそれを口にしたのはいつだったろう。風邪を引いて熱を出している時だったもしれない。風邪を引いた時の食事には決まって卵味噌が出た。相当濃い目の具のない味噌汁に卵を入れて掻き混ぜただけのシンプル極まりない料理だったが、これを匙で掬って食うと、なぜか大抵熱が下がった。そこへたまにバナナが加わる。そのバナナが手に入らない時に、ひょっとしたらチョコレートが食いたいと譫言を言ったのかもしれない。枕元のお膳にチョコレートが置かれてあった。そんな具合に風邪を引くと特別メニューが出るものだから、子どもの心のどこかに熱が出てくれないかなと不謹慎な期待が湧き起こることも一度や二度ではなかったような気がする。

駄菓子を100円まで買ってよしと許可を与えると、二人の孫は駄菓子を入れる小さな籠を持って、駄菓子の島をぐるぐる回り出した。あれも欲しい、これも欲しいと目移りする様子で、一旦籠に入れた駄菓子を元に戻し、新しい駄菓子と入れ替えることを繰り返していた。そのうち上の孫が、壁に吊るされているスーパーボールの籤を見つけた。ああ、やはりそこへ行ったか。1回20円とある。その費用を捻出するために籠の駄菓子を1個減らし、勢い良く籤を引いた。手にしたのは一番小さなボール。これが不満らしく、更に籠から籤代を捻出し再度チャレンジ。二度目は一回り大きいボールを引き当てた。何だか私のガキの頃とそっくりだ。孫娘は50円のシュシュと30円のネルネルネールと10円のコインチョコ2枚をゲットして大満足だったらしく籤には手を出さなかった。

伊豆の家に着いたら、早速トンカチを手にして工作しだした。電車を作るのだという。釘の打ち方もだいぶ板についてきた。それに伴って私が手を貸す回数もかなり減ってきた。さてさて、仕上がりは何色に塗るのかな。幼子の釘打つ音や天高し(あ)

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